駿河台、湯島
   小栗坂、皀角坂、女坂、男坂、錦華坂、富士見坂、甲賀坂、胸突坂、池田坂、雁木坂、紅梅坂、観音坂、新坂、幽霊坂、淡路坂、明神石坂
   
  上の図は、現在の道筋に「江戸切絵図集成:尾張屋版」に描かれているそのころの道筋を今に残る坂道を書き入れたもです。
今の道筋とは多少異なっていたと思われますが、「江戸切絵図集成」に描かれている道筋を当てはまると思われる現在の道筋にトレースしてみ ました。、「江戸切絵図集成」に描かれている道  筋は今と違ってかなり少ないことがご覧になってお判りと思います。特にこの地域一帯は、武 家屋敷が多くあり、より道が少なかったのではないかと思います。坂や丁名についても、「江戸切絵図集成」にある名前をそのまま引用していま す。
「江戸切絵図集成」が描かれたころの坂道を見ますと女坂、男坂、錦華坂、観音坂、富士見坂、新坂は描かれていません。これらは明治以降に なってから造られた坂と思われますが、各坂の説明に詳細を載せていきたいと思います
   
   小栗坂                                         標高(坂上)8m (坂下)6m (差)2m
   小栗坂上  小栗坂下  この坂の標柱には。『この坂を小栗坂といいます。「江戸惣鹿子名所大全」には、「小栗坂、鷹匠町にあり、水道橋に上る坂なり、ゆえしらず」とあり、「新撰東京名所図会」には、「三崎町一丁目と猿楽町三丁目の間より水道橋の方へいずる小坂を称す。もと此のところに小栗某の邸宅ありしの因る」かかれています。明暦三年(一六五七)頃のものといわれる江戸大絵図には、坂下から路地を入ったところに小栗又兵衛という武家屋敷があります。この小栗家は、「寛政重修諸家譜」から、七百三十石取りの知行取りの旗本で、小栗信友という人物から始まる家と考えられます。』とあります。この標柱から見ますと、やはりこの付近に小栗という旗本の屋敷があったので付いた坂名なのでしょう。坂は、皀角坂の途中からほぼ直角に折れていた、なだらかな坂です。


       
   皀角坂(別名: 皀坂、梍坂) すべて、さいかちと読みます。          標高(坂上)20m (坂下)8m (差)12m
   皀角坂上  坂途中にある神田川上水の懸樋跡の説明  皀角坂下
   木標には、『この坂を皀角坂といいます。「新撰東京名所図会」には、「駿河台鈴木町の西端より、土堤に沿って三崎町の方に下る坂なり」とかかれています。名称については、「新編江戸志」に、「むかし、皀角の樹多くある故に、坂名とす。今は只一本ならではなし」とかかれています。「サイカチ」とは野山にはえる落葉高木で、枝にとげが多く、葉は羽状形で、花も、実も、豆ににています。』とあります。坂は長く勾配もなかなかのものでした。坂の途中には、かつて神田川上水が、懸樋を使って流れていました(上の写真中)。「江戸切絵図」にも「新撰東京名所会図」ありますが、今は、中央線が神田川の脇を通っているので、堀近くには行けず、この掲示板だけで、詳しい状況はまったく残されていないようです。いずれ、神田川上水を歩くときに、詳しく調べてみたいと思います。
   
   女坂、男坂                                      標高(坂上)22m (坂下)8m (差)14m
   女坂上  女坂下  坂上にある木標には、『この坂を女坂といいます。駿河台一丁目七番地の端から猿楽町に下る石段の坂、”男坂”に対して名付けられたものです。男坂が一直線急坂であるのにくらべ、途中でなかやすみするようになっているので、”女坂”と呼ばれています。この坂ができたのは、大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により作られてものです。』とあり、江戸時代にはなかった坂です。この坂は、「江戸切絵図」にも描かれていません。今も残っている裏サイカチ丁という名前が付けられていた道が崖下をくねっていて通っていたところで、この辺すべてが武家屋敷がありました。写真でも、陰影図でもお判りの通り、この裏サイカチ丁の通りに向かって、非常に急な階段坂となって下っています。なんでこれが女坂なのかと思えるほどの急傾斜です。ご覧の通り、工事中でしたので、女坂の石碑も見つかりませんでした。

   男坂上  男坂下  坂途中にある木標には、『この坂を男坂といいます。駿河台二丁目一一番地の端から猿楽町へ下る石段の坂、”女坂”に対して名付けられてものです。この坂ができたのも比較的新しく、大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により作られてものです。男坂は同一場所、あるいは並行している急な坂を、女坂はゆるやかなというように区別されて名付けられています。』とあります。写真でお判りの通り、坂の両側は明治大学の校舎となっていて、男坂下には、校舎間の渡り廊下がかかっていました。両方の坂は、大フクロマチと裏サイカチ丁(いずれも「江戸切絵図」よおり)の道に挟まれた、抜け道なのか、男坂は人の行き来が頻繁にありました。




       
   錦華坂(別名:観学坂、勧学坂)                          標高(坂上)20m (坂下)8m (差)12m
   錦華坂上 錦華坂途中の低地   錦華坂下
   この坂の木標には、『この坂を錦華(きんか)坂といいます。名称は坂下に錦華小学校があるからです。この坂を勧学坂と呼ぶのは誤りです。この坂は大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により新しく作られた道路です「議決要綱の三」には、”南甲賀町より袋町三番地を横断して裏猿楽町二番地先の錦華公園東側に通ずる六米道路を新設”とあります。』とありました。「江戸切絵図」には、裏サイカチ丁の道路を一本隔てた道が、大フクロマチ道路から左折し、錦華坂途中から、胸突坂へ折り曲がって通っているのみで、この辺一帯が、大正一三年の区画整理で大きく変わってしまったものと推測されます。その時代は、この辺一帯は、武家屋敷が立ち並んでいて、道も少なく、人通りも少ない淋しい場所であったのではないでしょうか。
   
   富士見坂                                        標高(坂上)8m (坂下)6m (差)2m
   富士見坂下  この坂の木標には、『この坂を富士見坂といいます。「新撰東京名所図会」には「駿河台南甲賀町の内、袋町に通づる筋より南へ、猿楽町一丁目と小川町との間を下る坂、富士見坂と呼ぶ、風景賞すべきの地にあらざるも、遠く富士を望むを得べし。富士見坂の名もこれに基しか」とかかれています。富士見坂という名の坂は千代田区だけでも三ヶ所あります。富士見町と九段の間、紀尾井町と永田町二丁目の間にあります。』とあります。しかし、陰影図、写真をご覧になってもお判りの通り坂は極々平坦で、遠目にほんの少しの傾斜が見て取れる程度でした。坂の位置も本郷台地の先端のその先の平坦になった部分にあり、また、「江戸切絵図」にもこの坂はなく表猿楽町通りと、裏サルガク丁通りに挟まれた、三角地帯で、武家屋敷がぎっしりと建っていました。しかし、「新撰東京名所図会」に載っているということは、その当時にはきっと富士山が見えていたのでしょうが、ここから富士山が見えていたとは想像もつかない街中になっていました。坂としては面白みのない坂でした。








     
   胸突坂(別名:甲賀坂、吉郎坂)                          標高(坂上)21m (坂下)14m (差)7m
   胸突坂上  胸突坂下  案内板には吉郎坂とある
  この坂の標柱は見つかりませんでした。坂は、錦華坂の途中から、直角に入り、山の上ホテルの前を通り、広い通りに下って行く道にあり、「江戸切絵図」には、サイカチ坂を右折し、大フクロマチから、錦華坂(この時代には名前はない)途中で直角に曲がり、現在の山の上ホテル前を下って行く通りで、坂の向かい側は、甲賀通りとなっています。案内板の地図には、この坂名は、吉郎坂となっています。坂はかなりの勾配があり、坂上にホテルがあるせいでか、タクシーがひっきりなしに上がり下がりしている坂です。 
   甲賀坂                                           標高(坂上)14m (坂下)11m (差)3m
   甲賀坂上 甲賀坂下  小栗上野介生誕の地の碑
   この坂の木標には、『この坂を甲賀坂といいます。「東京名所図会」には、南北甲賀町の間に坂道あり、甲賀坂という。甲賀の名称の起源とすところは、往昔、甲賀組お者多く居住せし故とも、また、光感寺の旧地をも記されるが、云々とかかれています。どちらにしてもこのあたりは甲賀町とよばれていたことから名がつけられました。甲賀町の名は、昭和八年(一九三三)から駿河台一、三丁目となりました。』とあります。胸突坂を下って続く真っすぐな道で、坂もごく緩やかなもので、坂下は、池田坂に交わります。坂上角には、幕末期に活躍し、明治政府に謀殺された、小栗上野介の生誕の地とされる標識がありましたが、今はマンションとなっていて、昔の面影はまったくありません。。
   
   池田坂(別名:唐犬坂):とうけんとよびます                      標高(坂上)13m (坂下)9m (差)4m
   池田坂上  池田坂下 この坂は、最近になって整備されたようで、護湾のように大変にきれいな道でした。坂には標識がなく、また、坂下にあった石には「仲坂」とありました。道の両側は、日大病院と日大大学院の大きな建物があり、静かな緩やかな坂です。坂下で甲賀坂、坂上では雁木坂と交わっています。「江戸切絵図集成:尾張屋版」にも坂名も坂(||||)の印もありません。しかし昔からあった坂のようです。











    
   雁木坂                                           標高(坂上)18m (坂下)17m (差)1m
   雁木坂  桜通りという通りに雁木坂はある  桜通りという通りにある雁木坂には、『この坂を雁木坂といいます。今はその面影はありませんが、昔は急な坂で雁木が組まれていたといいます。雁木とは木材をはしご状または階段状に組んで登りやすくしたもので、登山路などに見られます。「新撰東京名所図会」には「駿河台紅梅町と北甲賀町の間を袋町の方に行く坂を雁木坂と称す。慶應年間の江戸切絵図をみるに、今の杏雲堂病院の前あたりに「ガンキ木サカ」としるさたり」と書かれています。』とありました。が、文章の通り、今は待ったkのなだらかな坂があるのかわからないくらいの道です。『江戸切絵図集成』には、桜通りは、「小フクロ丁」とあり「カンキサカ」となっていて、池田坂と突き当たったところに、辻番所が描かれています。(武家屋敷の町なのでか。辻々には番所が描かれています。)


       
   紅梅坂(別名:幽霊坂、光感寺坂、甲賀坂、埃坂、塵坂)            標高(坂上)18m (坂下)14m (差)4m
   紅梅坂上  紅梅坂下  この坂の木標には、『この坂を紅梅坂といいます。このあたりは紅梅町とよんでいたのでこの坂名がつきました。淡路町の幽霊坂とつながっていましたが、大正十三年(一九二四)の区画整理の際本郷通りができたため二つに分かれた形になりました。「東京名所図会」には、”東紅梅坂町の中間より淡路町二丁目に下る坂あり、元埃坂と唱えしに、維新後淡路町の幽霊坂と併せて紅梅坂と改修せり”とかかれています』とあります。坂は、ごくごく短く、すぐの坂下は、本郷通りに寸断されていますが、『江戸切絵図集成』を見ますと、幽霊坂につながっています、坂自身を見たときには、なんでこんな行き止まりに坂があるのかと不思議に思いましたが、なるほどと納得のいく説明でした。






       
   観音坂                                           標高(坂上)10m (坂下)6m (差)4m
   観音坂上  観音坂下  この坂の木標には、『この坂を観音坂といいます。「東京名所図会」には、”新編江戸志に、観音坂は埃坂と並び、むかし茅浦観音寺やしきありし故に名づくなりと見ゆ。この坂の上観音院と称する仏刹ありしことは寛永の古地図を見ても知られるべし。新編江戸志に観音寺とあるのは観音院の誤りなるべし”とかかれています。しかし、延宝(一六三〇〜八〇)、元禄元年(一六八八)の古図には、このあたりに「芦浦観音寺」が見え、名の起こりは観音寺または観音院によるといえます。』とあります。坂は、ご覧になってもお判りの通り、極々なだらかな坂です。






       
   新坂                                             標高(坂上)13m (坂下)10m (差)3m
   新坂上  新坂下  この坂の木標には、『この坂を新坂といいます。「新撰東京名所図会」には「新坂は維新後、新たに開かれたる道路なり、昔は観音坂と紅梅坂との間、安部主計頭の屋敷にして、此処より駿河台に登る通路なかりし、崖の上には今も旧形を存せる彼の練塀の外囲ありしなり、此の連塀を道幅だけ取 ちて通路を開きたり、故に呼んで新坂といえり」とかかれています。維新後とのみかかれその年月は不明です。』とあります。『江戸切絵図集成』を見ましてもそこに道はありません。阿部主計頭の敷地内であったようです。行ったときは、写真をご覧の通り、公園整備のための工事中でした。







       
   幽霊坂                                          標高(坂上)18m (坂下)10m (差)8m
   幽霊坂上  幽霊坂下  工事中の写真
  この坂の木標には、『この坂を幽霊坂といいます。もとは紅梅坂と続いていましたが、大正一三年(一九二四)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれる形となりました。「東京名所図会」には、”紅梅坂”は、往時樹木陰鬱にして、昼尚凄寂たりしを以って幽霊坂と唱えたりを、今は改めて紅梅坂と称す。”とかかれています。また古くは光感寺坂とも埃坂とも呼ばれていたこともあるようですが、一般には幽霊坂の名でとおっています。』とかかれています。この淡路坂から入ったこの坂は、淡路坂に対する抜け道的な、かなりの急坂で、最初に訪れたときは、まだ工事中で、両側は高い仮設の塀に囲われていて、人通りも少なく裏淋しい陰気な道で、木標の説明の通りでしたが、2回目に訪れた時には、工事も終了していて、ご覧の通りの整備された大変きれいな道になっていました。
   
   淡路坂(別名:一口坂、芋洗坂、相生坂、大坂)                  標高(坂上18)m (坂下)8m (差)10m
   淡路坂上と中央線(崖の交差がよく判る)  淡路坂下(右側は中央線)  この坂の木標には、『この坂を淡路坂といいます。この坂は、相生坂、大坂、一口坂と別名もあります。坂上には太田姫稲荷、道を挟んで鈴木淡路守の屋敷があり、これが町名・坂名の由来といわれます。一口坂は、太田姫稲荷が一口稲荷と称したためです。』とあります。『江戸切絵図集成』にも、この坂の上神田川との境に、太田姫稲荷があり、坂下の昌平橋に係る辺り一帯が八辻の原と呼ばれた広い原っぱとなっています。坂は、中央線と並行して走り、かなりの傾斜のある長い坂で、上り下りには一苦労したことでしょう。また、写真左に見るように、台地が切り裂かれているような形となっていて、昔は一つの台地であったと思われます。






       
   明神石坂  (別名:明神男坂)                            標高(坂上)18m (坂下)8m (差)10m
   明神男坂上  明神男坂下  この坂の木標には、 『この坂を明神男坂といいます。明神石坂とも呼ばれます。「神田文化史」には「天保の初年当時神田の町火消『い』、『よ』」、『は』、『萬』の四組が石坂を明神に献納した。」と男坂の由来が記されてます。この坂の脇にあった大銀杏は、安房上総辺から江戸へやってくる漁船の目標になったという話や、坂から眺めがよいため毎年一月と七月の二六日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。』とあります。坂は、神田側から神田明神へ上る石段の坂で、他の神社にある石階段と同様にかなり急傾斜の石段です。男坂とあるので、女坂もあるのかと探してみましたが見つかりませんでした。のちに「今昔 東京の坂」を調べてみましたところ、「女坂は、神社裏を湯島三丁目に下っていたが、いまはない。」とありました。表の大きな石階段に比べ、なんとなく魚港に出るような裏道の感じがします。


    この項おわり 

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