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麹町、番町 |
永井坂、正和新坂、正和坂、善国寺坂、袖摺坂、南法眼坂、五味坂、行人坂、東郷坂、御厩谷坂、鍋割坂 |
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千代田区西部の坂道を歩いてみました。しかし、西部地区は広く、一つの地形図にしてしまうとあまりにも小さくなってしまい、判りずらくなってしまったので、2部に分けて表現してみました。上の地形図は3枚とも、"Google Map”.”Google Earth”で千代田区西部の下半分を表現しています。陰影図をみましてもお判りの通り、この地区はそんなに高いところはないものの、地形的にはかなり入り組んでいるところで、多くの坂道が存在します。また、一帯は番町という名で整理され、一番町から六番町まで、多くの旗本武士の屋敷があったところです。地形的には、地形図と陰影図を見比べてみていただくとお判りの通り、善国寺坂、正和坂、正和新坂、永井坂と北(地形図の上方向)に向かって下っており、低地からは、袖摺坂、南法眼坂と北方向に上がっていることがはっきりと判ります。この低地部を挟んで番町が出来上がっているわけですね。どの坂も、地形図を見た限りでは等高線も余りこんでいなく傾斜もそれほどではないと思い、歩いてみましたが、夏の暑い日のせいかかなりのハードワークとなってしまいました。 |
永井坂 |
標高(坂上)29m (坂下)20m 差9m |
永井坂上 |
永井坂中 |
標柱には、『この坂を永井坂といいます。坂下一帯は三丁目谷ともいわれています。名称のおこりは旗本屋敷の名によるとされています。嘉永四年(一八五一)の「東都番町大絵図」という切絵図をみますと永井勘九郎・永井奥之助という旗本が道をはさんでちょうどむかいあっているかのようにみえます。』とあります。が、今では両側に旗本屋敷があったとは想像もつかない状況になってしまっています。坂の下からは、袖摺坂となって、北に登っています。坂は、だらかなゆったりとした道となっています。
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善国寺坂(別名:鈴振坂) |
標高(坂上)30m (坂下)24m 差6m |
善国寺坂上 |
善国寺坂下 |
標柱にでは、『この坂を善国寺坂といいます。「新選東京名所図会」には「善国寺坂、下に番町の間より善国寺谷に下る坂を言う。むかし此処の坂上に鎮護山善国寺ありしにより因り名づく」鎮護山善国寺は標識の場所からみると、右斜め前の辺りにありましたが、寛政十年(一七九八)の火事により焼失して牛込神楽坂に移転しました。坂下あたりは善国寺谷、また鈴降(振)谷と呼ばれていたといいます。』とあります。地形図・陰影と左下の写真を見ますと、手前からゆるやかに下った坂は、その先から急な登りとなっていることが判ります。”今昔 東京の坂”では、この低地は地獄谷と呼ばれていて、荒涼たる地であった。そうです。
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袖摺坂 |
標高(坂上)25m (坂下)20m 差5m |
袖振坂上 |
袖摺坂下 |
標柱には、『この坂を袖摺坂といいます。昔この坂道は行き合う人の袖と袖がふれあうほどせまいので、その名がついたといわれます。幅のせまい道をこのように名付けた坂はほかにもあります。』とあります。が、写真でお判りの通り、今では道も片道一車線はあり、なだらかなゆっくりとした坂になっています。
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五味坂(別名:芥坂、埃坂、ハキダメ坂、甲賀坂、光感寺坂、光威寺坂、光威坂) 標高(坂上)26m (坂下)17m 差9m |
五味坂上 |
五味坂下 |
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標柱には、『この坂の名前は、五味坂といいます。「ごみ」という名前から、「芥坂」や「埃坂」の字をあてたり、その意味から「ハキダメ坂」と呼んだりさらに、近くにあったという寺院の名から「光感寺坂」・「光威寺坂」と呼ばれ、さらに「光感寺坂」がなまって「甲賀坂」とも呼ばれたといいます。「麹町区史」には、「由来は詳からではないが、光感寺が元とすれば、甲賀は光感の転化らしく、ごみは埃ではなく五二が転化したものではないか」という内容の説明があります。つまり、坂のあたりは五番町で、坂を登ると「上に番町」なので、二つの町を結ぶ坂として「五二坂」名前がつき、「五味坂」に変わったのではないかということです。ちなみに、昭和十三年(一九三八)に実施された区画整理の結果、「五番町」と「上に番町」は現在では「五番町」に含まれています。』とあります。上の写真でもお判りの通り、坂は、袖摺坂の途中から右に、かなりの勾配を以って下っている坂です。ちなみに、写真左の袖摺坂を少しのぼったところに、「五味坂交番」という交番があります。坂の名前が付いた交番なんて、ちょっとしゃれていますね。また、この坂には、たくさんの別名があります。ハキダメ坂なんて、なんでつけたのだろうと考えてしまう名前もあります。昔この坂下が、芥捨て場だったからという説もあります。この「芥坂」という名前の坂は、他の場所にも存在し、同じような状況だあったのではと推測されます。いづれにしても、生活感がにじみ出ていて、おもしろいとは思いますが、やはり「ハキダメ坂」では?ですね。この辺は、南側に袖摺坂、北に御厩谷坂と坂が連なり、凸凹な地形であったことがうかがえます。 |
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南法眼坂(別名:行人坂、法印坂、キンツバ坂、八百屋坂) |
標高(坂上)28m (坂下)23m 差5m |
南法眼坂上 |
南法眼坂下 |
住宅街にある坂で、坂上は、ゆっくりとうねりながら、行人坂、東郷坂と続く 長い一本道です。「今昔 東京の坂」には、この行人坂、東郷坂はふくめて古くは法眼坂といわれ、その南にあるので、南法眼坂とよばれたとあります。坂は、ご覧の通り、かなりの傾斜のある坂となっています。キンツバ坂、八百屋坂という坂名については、「今昔 東京の坂」によりますと、明治末、坂上にキンツバを売る老夫婦がいたり、坂下に八百屋があったからと書いてあります。
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行人坂(別名:法印坂) |
標高(坂上)28m (坂下)24m 差4m |
行人坂上 |
行人坂下 |
標柱には、『この坂を行人坂といいます。「新撰東京名所会図」には、「行人坂、上六番町と中六番町との間を南の方に登る坂を称す」とかかれています。また、「御府内備考」にも「行人坂、古某法師と称する行人この辺りに居するゆえにこの名あり、また、法印坂とも呼び或は転化して法眼坂という」とあります。もともと一連の坂を起伏により、東郷坂、行人坂、南法眼坂と三つの名にわけてよんだものであり、法眼坂の名称だけの地図も多いようです。』とあります。南法眼坂、行人坂、東郷坂は、一本の道のうねり上にあり、3本全部は一望できないが、立つ位置によっては、遠くまでうねっている道であることがよくわかる。標柱はあるものの、説明はついていませんでした。
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東郷坂(別名:法眼坂) |
標高(坂上)28m (坂下)24m 差4m |
東郷坂上 |
東郷坂下 |
標柱には、『むかしは東郷坂のところを法眼坂、それから南法眼坂につづいていたといいますが、はっきりしていません。』とあります。また、「新撰東京名所会図」には、南法眼坂、行人坂、東郷坂の3つをひとつの坂として、法眼坂としている。この坂のすぐ横に”東郷元師邸”があったので、後から付けた名前であると、私も思う。この坂は、通学路となっているようで、ご覧の通り、常に学生さんたちが行き来している道でもあります。坂上からは、行人坂が、かなりの傾斜で上がっているのが見えます。地形図陰影でもわかるように、この道は、かなりのうねりのある道であることがよく判ります。
南法眼坂、行人坂、東郷坂は、一本のほぼ真っすぐな道にありますので、写真でみられるように、お互いの坂を見ることができます。これらの坂道を眺めてみることにより、この辺一帯は、かなりのうねりのある地形であったことが判ります。地形って面白いですよね。
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御厩谷坂 |
標高(坂上)m (坂下)m 差m |
御厩谷坂上 |
御厩谷坂下 |
標柱には、『この坂を御厩谷坂といいます。「新撰東京名所会図」には「一番町と上六番町との間、すなわち井伊家邸前より南の方に係れり。厩谷とも御厩谷という。むかし徳川将軍家の厩舎ありしに因り此の名あり。」記され、「新編江志史」にも「今も紅梅勘左衛門殿やしきに御馬の足洗いし池残りてあるなりというて見えたり」とあります。御厩谷にかかる坂ということにより坂名となりました。』とあります。この坂も永井坂、袖摺坂の延長にあり、坂上からは、遠く袖摺坂を見ることができます。
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鍋割坂 |
標高(坂上)26m (坂下)22m 差4m |
鍋割坂上 |
鍋割坂下 |
標柱には、『この坂を鍋割坂といいます。「新撰東京名所会図」には「掘端より元新道一番町の通りへ上がる坂なり。」とかかれています。同じ名称の坂は各地にありますが、どれもふせた鍋(台地)を割ったような坂であることからその名が付けられています。千代田区隼町の国立劇場北側のところにも同名の坂があります。』とあります。坂は、内堀通りから、千鳥ヶ淵に向かってまっすぐに伸びた短い坂道です。左記には、千鳥ヶ淵緑道がありますが、昔は、番町方向から御城に向かうには、この道を通って千鳥ヶ淵緑道を通って御城に通ったのではないかと推察されるほど道は整備されていて美鈴ですが、人の通らない、ビルに挟まれた淋しい坂道です。
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正和新坂 |
高低差(坂上)31m (坂下)25m 差6m |
正和新坂上 |
正和新坂下 |
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正和坂 |
高低差(坂上)31m (坂下)25m 差6m |
正和坂上 |
正和坂下 |
この辺り一帯の「江戸切絵図 尾張屋版」を見てみますと、善国寺坂のある道には、坂名も坂の印もなく、今の新宿通りに面する辺りに、”善国寺立跡”と書かれた(この時代にはもうなくなっていた。)、広い御用地が描かれています。きっとこの敷地の前の道は、坂道であったと思われます。南法眼坂、行人坂、東郷坂は、ひとつの法眼坂となっており、長い道に、”llll”の印が2ヶ所あります。きっと今と変わりのない、長くうねっている道だったのでしょう。御厩谷坂、袖摺坂、永井坂の一本道には、”御厩谷”とあり、書かれていつ辺りが、谷の底であったと思います。谷の前後には、”△“印が4か所もあり、これらの坂道と思いますが、坂道名は書かれていません。五味坂には、ゴミ坂と名前があります。正和坂は、同じような場所に道はありますが、坂名も、坂の印もありません。新正和坂は、その頃には、道さえ描かれていません。
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正和坂、正和新坂ともに新しい坂です。標柱も見つからず、今後の調査課題です。 |
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飯田町、九段 |
九段坂、三年坂、帯坂、新坂、一口坂、富士見坂、中坂、二合半坂、冬青木坂(もちのき)、幽霊坂@、幽霊坂A、幽霊坂B |
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引き続き、千代田区西部の上半分を歩いてみました。この地域も等高線を見た限りではそんなに高いところはないように見えますが、いざ歩いてみますとかなりの坂道ばかりでした。長いなだらかな坂も、急な短い坂も上り下りするとなると、かなりの体力の消耗を覚悟しなければなりません。真夏の暑い日は避けた方がよいかもしれませんね。ここには、幽霊坂という名前の付いた坂が3つ存在しています。その3つが隣にあったり、すぐ近くにあったりで、しかもかなりの傾斜を持った坂でした。なんで同じ名前の坂が3つもくっついているのだろうと、「今昔 東京の坂」を調べてみますと、この辺りは武家屋敷ばかりあって、淋しい処であったようです。今行ってみても、この3つの坂とも狭くかなりの急傾斜の場所にありました。でも、同じ坂名が隣接している場所なんて、ちょっとおもしろいですね。納得です。都内には、他にも同じ名前のつた坂がまだまだ存在しました。そこには同じような理由があるのでしょうか?追々歩き調べていきたいと思います。この一帯は、九段坂のように長くきつい傾斜の坂や、二合半坂や冬青木坂、中坂のように、等高線がかなり入り組んでいるきつい傾斜の坂もあります。 |
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九段坂 |
高低差(坂上)22m (坂下)8m 差14m |
九段坂上 |
九段坂下 |
九段坂上にあった説明板(牛ヶ淵と書いてあった。) |
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九段坂下にあった、蕃書調所跡の碑 |
標柱には、『この坂を九段坂と言います。ふるくは飯田坂とも呼びました。「新撰東京名所図会」には”九段坂は、富士見町より、飯田町に下る長坂をいう。むかし、御用屋敷の長屋九段に立てし故、これを九段長屋といいしより此坂をば九段坂といいしなり。今は斜めに平かなる坂となるも、もとは石を以って横に段をなすこと九層にして且つ急峻なりし故車馬は通すことなかりし、とかかれています。坂上は観月の名所としても名高く、一月、七月二十六日夜待ちといって、月の出を待つ風習があったといいます。』とありました。また、坂上の説明がある標には、坂の頂上付近は、牛ヶ淵と呼ばれていて、葛飾北斎が描いた絵にもあるように、左はお濠、右側は武家屋敷の塀があり、絵は誇張して書かれているとありますが、それでも急峻な坂であったようです。今はそんな面影はまったくなく、交通の激しい、長い坂となっています。九段坂は有名な坂の一つです。江戸城の北の部分を登っています。、見た目にはきつそうではないのですが、下から歩いてみると長くかなりの労力を必要とする坂です。坂の下の交番と、九段会館裏に挟まれたように、蕃書調所跡の碑がひっそりとありました。ここは、私の好きな場所のひとつでもありますが、江戸末期に、イギリスやアメリカに触れ、書物の翻訳や、科学知識を学び取る有名な子弟たちが数多く輩出された場所でもありますが、あまりにも標柱のみであり面影を見ることはできませんでした。(左の写真)
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三年坂(三念寺坂、三念坂、三枝坂) |
高低差(坂上)24m (坂下)22m 差2m |
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三年坂上 |
標柱には、『この坂を三年坂といいいます。「新撰東京名所図会」には、「下六番町より土手三番町の中間を貫き土手際に降る坂をいう。三年坂は現今通称する所なるも、三念寺坂を正しとす。むかし三念寺といえる寺地なりしに因り此名あり、然るに俗間誤りて、三年坂と称し、」とかかれています。』とあります。江戸切絵図を見てみますと、武家屋敷に挟まれた、暗い狭い坂であったと見えます。ご覧のようにいまでも狭い、高い塀に囲まれた坂です。
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帯坂(別名:切通坂) |
高低差(坂上)28m (坂下)20m 差8m |
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帯坂上 |
帯坂下 |
標柱には、『この坂を帯坂といいます。名称は歌舞伎で有名な番町皿屋敷の旗本、青山播磨の腰元お菊が、髪をふり乱し帯を引きずってにげたという伝説によります。また一名を切通し坂ともいわれたのは、寛永年間(一六二四〜一六四三)外堀普請の後に市谷御門へ抜ける道として切り通されたので、その名がつけられたといいます。』とあります。道はご覧の通り狭く、江戸時代には、広大な旗本屋敷がいくつもあり、「番町皿屋敷」で有名な、お菊が髪を振り乱し、帯を引きずって走ったという話が真のような気がする狭い陰気な道です。別名、切通坂とあり、牛込御門に通ずる道を切り開いた道ということだが、今はその面影もなく、マンションの建ちならぶ道となっていて、外灯も少なく、薄暗さは今も変わりない。
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新坂 |
高低差(坂上)30m (坂下22)m 差8m |
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標柱には、『この坂を新坂といいます。新しく作られたということでしょう。江戸時代の絵図をみますと、ここに道はなく、人々は東側の帯坂や、西側の三年坂に迂回しなければなりませんでした。しかし、明治二十三年(一八九〇)三月の「東京市区改正全図」には三等道路として、この道を通す計画が書き込まれています。大正元年(一九一二)の(東京市麹町区地籍地図)では、この道を地図上で確認できます。』 とあります。「今昔 東京の坂」にも、明治末期に造られた坂、とのことで、あまり興味がわかない坂のひとつではあるんで、さらりと流していきます。
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一口坂(別名:ひとくち坂) 一口と書いて、”いもあらい”とよびます。 |
高低差(坂上)27m (坂下)23m 差4m |
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一口坂上 |
一口坂下 |
標柱には、『この坂を一口坂といいます。(麹町区史)には”一口坂の一口は、大阪のいもあらいと同じくイモアライと読むべきで、電車の一口坂停留所から北へ九段電話局の前を新見附へ降りる坂である”とかかれています疱瘡をいもがさとかへもとよんで、疱瘡を洗う(治す)という意味として知られています。ただこの疱瘡に霊験あらたかな社がどの辺かにあったということは不明です。』とありました。「千代田区史跡散歩」には、いもあらいとは、「地貰」の転訛で、むかしは、土地所有権を確定するさい、地に棒を立てて、「一口」の印をつけ明示した。もともと、一は境を、口は土地を貰ったことを意味する記号にすぎなかった。と書いてあります。
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富士見坂 |
高低差(坂上)26m (坂下)17m 差9m |
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富士見坂上 |
富士見坂下 |
標柱には、『ここの坂を富士見坂といいます。同名の坂は各地にあり、千代田区でも三ヶ所をかぞえます。もともと富士見町という名は富士山がよくみえる台地につられた町ということでしょう。むかしはこの坂から富士山の美しい姿が見えたことによりその名がつけられたということです。坂の下で一口坂と合流します。』とあります。しかし、富士見坂と一口坂の合流は、一口坂は、新見附門方向に下るのに対して、富士見坂は一口坂の合流地点から、細い道をかなり歩いてから、ゆっくりと下っている坂道です。(標記誤りであはないでしょうか。)。左の写真を見ていただくとお判りのように、坂上からはかなりいい景色が見えていたようです。建物がなければ、晴れた日のはきっと、富士山を見ることができたと思います。
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幽霊坂 |
高低差(坂上)26m (坂下)@18m A16m B18m |
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幽霊坂 @ 上  |
幽霊坂 A 上  |
幽霊坂 B 上 |
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幽霊坂 @ 下 |
幽霊坂 A 下  |
幽霊坂 B 下  |
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幽霊坂@、A、Bの位置関係 |
幽霊坂@、A、Bの位置関係
この地区の幽霊坂と名のある坂が3つあります。上の6枚の写真と左の位置関係の写真を見ていただくとよく判ると思いますが、この3つの坂は、幽霊坂Bに通じる道路に沿って、@とAがあります。幽霊坂@は、左の写真の道路の少し手前にありますが、私有地とのことで、通行止めの警告板がありました。坂はかなりの急坂で、途中から左に曲がっていました。幽霊坂AとBの位置関係は、左の写真のとおり、幽霊坂Bに通じる道路のすぐ手前から幽霊坂Aが下っています。幽霊坂AもBも急な坂で、徒歩での上り下りには難儀であったと推察されます。雨に降られたらぬかって上り下りするどころではなかったのではないでしょうか。
『江戸切絵図』(尾張屋版)には、幽霊坂B(坂名はない)の道はありましたが、武家屋敷で行き止まりとなっています。(この先に道がないことから、幽霊坂と名がついたのかもしれませんね。)@は、尾張屋版には真っすぐな位置となってあり、Aは存在していません、新しい道のようです。
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中坂(別名:飯田阪) |
高低差(坂上)24m (坂下)8m 差16m |
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中坂上 |
中坂下 |
標柱には、『この坂を中坂といいます。(御府内沿革図書)によると、元禄三年頃(一六九〇)までは武家地となっており坂はできていませんが、元禄十年(一六九七)の図以降になると中坂が記録され、元禄十四年(一七〇一)以降の図には世継稲荷神社も見ることができます。なお「新撰東京名所図会」には「中坂は九段坂の北方に在り。もと飯田阪といへり。飯田喜兵衛の居住せし地なるに因れり中坂と称するは、冬青阪と九段阪との中間に在るを以ってなり、むかし神田祭の山車等は、皆此阪より登り来れるを例とせり。」とかかれています。』とあります。坂は、広く勾配もあり、なかなかの坂で、道の両側には、”築土神社”がありと、江戸末期には栄えた道であると思われます。『江戸切絵図』(尾張屋版)には、九段阪より広く”飯田町中坂”と 書かれていてます。「今昔 東京の坂」によりますと、九段坂のような急峻な坂ではなく、なかなか賑わいのある通りであったとあります。坂上には、明治時代の文芸結社”硯友社跡”の碑がありました。
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冬青木坂(別名:黐の木坂、もちの木坂、餅の木坂、万年坂) |
高低差(坂上)24m (坂下)7m 差17m |
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冬青木坂上(左はフィリピン大使館の建物) |
冬青木坂下(右側一帯はフィリピン大使館の建物) |
冬青木坂を(もちのき坂と読みます。標柱には、『この坂を冬青木坂といいます。「新編江戸志」には、「此所を冬青木坂ということを、いにしへ古び足るもちの木ありしにより所の名と呼びしといえど左にあらず、此坂の傍に古今名の知れざる唐めきて年ふりたる常盤木あろとぞ。目にはもちの木と見まがえり。この樹、先の丙午の災に焼けてふたたび枝葉をあらわせじとなん。今は磯野氏の屋敷中にありて、其記彼の家記に正しく記しありという」とかかれています。』とあります。江戸時代には、九段阪、中坂、冬青木坂に挟まれた土地は、町人の町であったようで、かなりの賑わいをえていたということが書かれている資料もありますが、坂は左一帯がにフィリピン大使館の広大な敷地で、狭くて薄暗い人通りの少ないかなり険しい坂です。
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この辺を『江戸切絵図 尾張屋版』で見てみますと、市ヶ谷御門に通じる辺りには、三年坂の名前があります。また、帯坂と思われる、市ヶ谷御門に直行している道には、名前はないものの、坂道の印”llll”があります。新坂は道自身も描かれていませんので、、このころにはなかった道のようです。一口坂、富士見坂は、富士見坂も今と同じような場所にあったと描かれていますが、坂下には、御用地があり、沿っている道に”蛙ヶ原ト云”と書かれた原っぱがあります。近江屋版には、富士見坂の名前はなく、”三番町通り”とだけあります。富士見坂は存在していますが、富士見坂と交わる道には、坂名も、坂の印も描かれていません。九段坂は、九ダン坂とあり、”△”が書かれていて、中坂には飯田町中坂ともあり、坂が2つにうねっていたようです。今とあまり変わらない姿であったと思います。そこにも段々があるように書かれています。冬青木坂は、モチノ木サカとあり、ここにも段が書かれています。二合半坂は、冬青木坂とはつながっておらず、二合半坂と思われる道には、坂名も、”llll""△”もありません。そのあたりの道に、”牛込御留守居丁”の名がみられます。3つの幽霊坂の名前もなく、板倉内膳正の屋敷があったあたりに現在と同じ位置に道は存在しますが、坂名も、坂の印もありません。「今昔 東京の坂」には、この辺りの低地は、樹木谷、あるいは地獄谷といわれた、荒涼たる地であったとあります。また、『江戸切絵図 尾張屋版』にも、この一帯を蛙ヶ原と呼んだ湿地帯であったと書かれたいます。 |
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二合半坂(別名:日光半坂、日光坂、こなから坂) |
高低差(坂上)24m (坂下)10m 差14m |
二合半坂への道 |
二合半坂上 |
二合半坂下 |
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この項おわり  |
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