ここからは文京区の坂道を探索していきます。ここでの参考書・参考資料は「今昔 東京の坂」に加え文京区々役所にて入手した文京区の観光ガイド”文京おさんぽガイド”とB4判1枚の”文京区の坂道”です。”文京区の坂道”には坂道の位置と坂道名と番号の一覧が書かれていますがその番号は115を数えます。文京区の坂の多さが判ります。Google Earthで文京区を見てみますと東は台東区、北区が、南には千代田区、北には豊島区、西は新宿区が位置し非常に開けていてそのほとんどが住宅や建物で占められていて僅かに小石川後楽園・小石川植物園・六義園・豊岡墓地に緑が見られます(見にくいとは思いますが水色の細い線が区の境を表しています。)。でも上の図では建物が密集しているだけでなんだかよく判りません。そこで文京区全体の地形図に陰影をかけてみますと文京区の起伏の変化/豊かさがよく判ります。ひとつには本郷台地の高台が区の東側に南北に位置し、中央の狭い低地を挟んで本郷台地の付け根辺りから白山台地突きだしており、深く入り込んだ低地を挟んで小石川台地、小日向台地があり、護国寺前を最深部とする低地がまた深く入り込んだ反対側に目白台地があります。この地形図だけでも文京区の凸凹さがよく見てとれますが等高としてはどうなのでしょうか?上の地形図の範囲では等高線がよく表示できませんので以下に等高線が現れる最大地形までもう少し拡大して南東部/北部/西部と3つに分けて文京区の崖線と等高線を見比べてみました。
  文京区に等高線をかけてみました。等高線がある程度見るくらいに地形を拡大していきますと、他の区と同様に一枚の地形図では収まりませんでしたので下のように3枚の地形図となりました。 
   文京区東南部
   文京区の南東部には本郷台地、小石川台地、小日向台地の3つの半島状の台地が突き出していて、神田川の流れる低地で止めれれています。この3つの台地が形成する地形は非常に起伏があり、とても複雑なものを造っています。大昔には海がこの台地の間、低地奥深くまで流れ込んでいたのではないかと想像できます。『江戸切絵図集成』が描かれて頃のこの辺はどうなっていたのでしょうか?尾張屋版下(本郷湯島繪圖)には、文京区南東部の最南端に聖堂が今とほとんど変わりない位置にあり、現本郷通りを挟んで東南部には加賀中納言(現東京大学の敷地)の広大な屋敷や水戸殿の屋敷(現:弥生町一丁目あたり)、小笠原信濃守の屋敷があり、本郷通りの上(北西部)には水戸殿(現:後楽園と小石川後楽園)のとてつもなく広大な屋敷や、本多中務大輔、阿部伊勢守の屋敷が多くの敷地を占め、その間には旗本、御家人なのか小さな武家屋敷が密集して描かれています。聖堂裏から東京大学前を通る本郷通りはこの切絵図が書かれた時代とほぼ変わりはなく昔ながらの道となっています。根津神社もそのころとかわらぬ位置にあります。
   文京区北部
   文京区の北部は本郷台地の東側、区境に本郷台地から台東区の低地へと下っていくいくつかの坂道があります。また、本郷台地と白山台地の間、白山台地と小石川台地の間、深く入り込んだ低地との間に多くはありませんが坂道を見ることができます。「江戸切絵図集成」の「駒込繪圖」を見ますと、今の本郷通りが境目のようでここから南西には大名屋敷や武家屋敷が所狭しと密集して建てられていますが、道を挟んだ北東には”畑”、”百姓地”と書かれた緑に塗られて部分が多くあります。
   文京区西部
  文京区の西部および南西部もまた大変複雑な地形となっていて多くの坂道が存在します。半島状の台地があったりいくつもの台地の境目に深く入り込んだ低地が複雑に延びていたりしてこの部分も大変坂道が多い地形になっています。が、北西部まで行きますと「江戸切絵図集成」が描かれて時代にはまだ田んぼや畑が多い地域になっています。文京区はいわば南の部分に坂が密集しています。ということは東南、西南に開発の手が多く入り北側は百姓地が多くあり開発がそこまで言っていないことがわかります。江戸城から少し離れてしまうと”遠い”という感覚なのでしょうか?しかしながら大変多くの坂がありますので歩きがいがありそうで心ときめいています。