渋谷区と港区の区境を流れていた笄川(こうがいかわと読む)という、今は完全に下水道化され暗渠になってしまっている。川の流れ跡を追いかけていましたところ、笄川の源流のひとつ近くには”北坂(姫下坂)”、”姫下坂”、”さんさん坂”という3つ(2つ)の坂があることが判りました。そこで早速追いかけてみましたが、北坂(姫下坂)や姫下坂と呼ばれていた坂には諸説あり、北坂を姫下坂とする説や、姫下坂は北坂とは別の場所にあるとする説もありましたので、こだわりを持って追いかけました。また、”さんさん坂”に関しましては、解体工事中であるAVEX社の敷地を囲んでいる工事用塀にAVEX裏の行き止まりの細い坂道を”さんさん坂”と書かれた 案内がありましたので(港区役所の資料には存在しません。)ここに載せてみました。
 北坂に関しましては、「今昔 東京の坂」にも載っていますが、笄坂の別名を北坂としているので、それとは別に北坂(別名:姫下坂、根津坂)があります。こちらの北坂は港区の坂を編集しているときに抜けていましたので改めて取材しました。が、位置的にいろいろと説がありどれがより地形・歴史に沿ったものかを独自で検討し私なりの意見としてここに載せてみました。
   
  上の陰影図とのロールオーバー図は、”Google Map” にて南青山近辺を取り込んだものに必要な部分と名称を書き込んでみたものです。この中で緑色で示した範囲と黄色の文字で書かれた名称は「江戸切絵図集成」の尾張屋版と近江屋版に書かれている敷地範囲と名称を乗せてみたものです。また”北坂”につきましては、古い書物に書かれている記述や「今昔 東京の坂道」や横関英二氏がお書きになった「江戸の坂東京の坂」:ちくま学芸文庫(この中では北坂を”姫下坂(ひめしたさか)”という名称を主としいます。)これらの事柄も面白いと思いますので、北坂の位置や長者ヶ丸の位置にこだわりを持って調べてみました。
   
   北坂(別名:姫下坂、根津坂:「今昔 東京の坂」より)と青山長者ヶ丸 
   長者ヶ丸と北坂に関するこだわりの記述:「江戸切絵図集成」尾張屋版、近江屋版ともにこの坂名はありませんが、尾張屋版には長者ヶ丸の地域が(下の挿絵参照)、近江屋版には道の上に”此辺青山長者ヶ丸ト云”と書かれています。ここに長者ヶ丸の屋敷があったとの言い伝えを元に北坂を推察してみました。また横関英二氏の書かれた「江戸の坂東京の坂」には”北坂”ではなく”姫下坂(ひめおりさか)”として書いてあり、その補足として北坂と書かれています。「今昔 東京の坂」では北坂となっていて、別名として”姫下坂”、”根津坂”となっています。他の資料(赤坂区史、等)では北坂は根津美術館横の坂道ではなくもっと東側の立山墓地横の坂道であるとしていますが、どちらも坂碑もなく根津横の坂道は明治三十二年に、立山墓地横は明治三十六年に開かれたと区史等には書かれています。 
   長者ヶ丸と周辺の昔と今 
   「江戸切絵図集成」尾張屋版の青山澁谷繪圖にある長者ヶ丸の位置  現在の長者ヶ丸の位置(推測)
  上左の絵図は「江戸切絵図集成」尾張屋版にある”長者ヶ丸”と書かれた緑色で示す範囲を赤線で囲ってみました。その横の道には近江屋版に細い道の上に”此辺青山長者ヶ丸ト云”と書かれていましたので尾張屋版に書き込んでみました。右側の地図は現在の様子を”Google Map”で取り込み左の切絵図と同じと思われる長者ヶ丸の範囲を緑線で囲ってみたものです。近江屋版に書かれている”此辺青山長者ヶ丸ト云”という通り道は現在、長者丸通りではないかと思われます。それと根津美術館(旧高木主水正の屋敷跡)や長谷寺(ちょうこくじ)の位置とその脇のカーブしている道、等から推察しての現在図への書き込みです。上の陰影図とのロール・オーバー図とも比較してみていただければと思います。ではこれらの資料を基に北坂、姫下坂の検証をしてみましょう。
             
   ここに載せた北坂に関する3つの説+笄坂(北坂)に関するより深いこだわり:
   ここに載せた3つの説を追いかけてみましたが、赤坂区史、等に書かれている文章従前、樹梢より滴る露と、崖陰より湧き出づる水とに汚れたる小徑一絛、蛇の如く通ずるのみなりしえを...)に対してのこだわりがあり確証を得るために古書を求め各区の資料室や図書館を巡り歩きました。その結果、いろいろとおもしろいことが判りましたので上記に加えそれらの根拠となった文章/資料から調べた事柄を付け加えて行きたいと思います。いつもながらにお伺いした各区の資料室や図書館の関係者の方々には大変お世話になりあした。あらためてお礼申しあげます。
 ここに記載する内容に関しましてはその根拠として以下の資料、古地図を参考にさせていただきました。
 
 江戸切絵図集成(尾張屋版、近江屋版)、復元江戸情報地図(吉原健一郎/俵元昭/中川恵司 編集・制作 朝日新聞社発行)、東京市十五区近傍二十三町村、赤坂区史、麻布区史、御府内備考(第三巻、第四巻)、五千分一東京図測量原図(東京府武蔵国麻布区桜田町広尾町及南豊嶋郡下澁谷村近傍)
             
   北坂(別名:姫下坂(ひめおりさか)、根津坂)  標高 (坂上)31m、 (坂下)22m、 差9m
   ここに言う北坂は、「今昔 東京の坂」に書かれているように、(「東京の坂道」(石川悌二氏著作)には”これは現在の「根津坂(南青山六−四、四−二三)」に当ると思われると書かれています。)この坂は「根津美術館の東わきを西麻布二丁目へ下っている。」”と書かれており、また、「江戸の坂 東京の坂」(横関英二氏著作)には「西麻布二丁目の長谷寺、大安寺の裏を南青山四丁目に上がる坂で、「坂の頂上に根津美術館がある。」」と書かれています。御三方が同じ坂を示されているので、ここを北坂として紹介します。
   北坂上 右は根津美術館の塀  北坂中 根津美術館の塀が続く  北坂下 坂下まで根津美術館の塀が続く
   この坂の標は見つかりませんでしたが、いろいろな坂道の本では、この根津美術館横の長い坂道を北坂としているものが多いです。坂は根津美術館入口のある道を坂上として(写真左)の美術館東側を長く下って行きますがこの坂道は明治三十二年ひ開かれた比較的に新しい坂道とのことです。また「赤坂区史」にも「北坂 明治三十二年新たに道路を開いて出来た坂であった、新選東京名所圖會に次の如く記してゐる。 青山南五丁目と六丁目の間より麻布笄町に通ずる新開の坂道を北坂と稱す。従前、樹梢より滴る露と、崖陰より湧き出づる水とに汚れたる小徑一絛、蛇の如く通ずるのみなりしを、明治三十二年、土工を起こし開墾する。」とあります。これを検証しますと根津美術館の庭には湧水池と思われる大きな池があり、そこからの流出が笄川のひとつの源流となっているようで、また、坂下美術館の東南下からの流れが坂下左側一帯に沼地を造っていたようで(古くから坂下にお住いの板金屋さんの証言)崖陰という表現や、蛇の如くという表現とはかけ離れますがまあまあ合致しているのではないでしょうか。 
             
   北坂(赤坂区史から導いた坂)  標高 (坂上)32m、 (坂下)20m、 差12m
   長者丸通りから続く道の坂上  坂下と庚申塔   庚申塔 右青山堀の内 左百人組善光寺とある
   この坂を北坂とする根拠は、同じ「赤坂区史」の坂道を説明した項とは別に赤坂区の丁目説明している項目の”青山南五丁目”を説明している後半に、「町内東南端立山墓地は、一に足シ山墓地と稱ばれ、青山組與力同心に足シ地として賜った地域であると言はれてゐる。明治五年共葬地となり、公爵九絛家その他の墓がある。同墓地の西邊、南町六丁目界を笄町に降る坂がある。明治三十六年八月の開設に係り、名付けて北坂と稱んでゐる。」と書かれています。同じ書物の中で坂の項と丁目の項とで同名の坂を違った場所として説明しているのは面白いことですが、当時の切絵図と比較しましても青山五丁目には丹羽左京太夫や松前伊豆守の屋敷があり、六丁目には高鍋藩秋月邸や高木主水正の屋敷があり、区史に書かれている内容は正しいと思われます。が、坂道は現長者丸通り(青山長者ヶ丸)を青山通りから入って行き、船光稲荷を通り過ぎ立山墓地西側の細い細い坂道がありそこを北坂としています。開設が明治三十六年となっていて根津美術館横の坂道とは近い開設となっていますが、「今昔 東京の坂」にもそのことに触れています。が、どちらの坂道にも標がなくどちらが北坂なのかまたは両坂道とも北坂であるのかは判りません。蛇足ですが、「江戸切絵図集成」では尾張屋版、近江屋版共に坂名は書かれていませんが絵図内に添付されている現在の地図では両方ともにこちらを北坂としています。 
   北坂の不思議発見:「今昔 東京の坂」にある笄坂(北坂)の根拠
                 
                           五千分一東京図測量原図東京府武蔵国麻布区桜田町広尾町及南豊嶋郡下澁谷村近傍
   この坂を”笄坂 別名:北坂、中坂、おたつ坂 「高速三号線の下を、霞坂下から南青青山六丁目に上がる坂。近くを流れていた笄川(環状四号線)や、笄橋の名に因む。」”としているのは「今昔 東京の坂」(著者:岡崎清記 出版社:日本交通公社出版事業局)ですが、北坂の謂れは書かれていません。別に”北坂”の項があり別名:姫下坂、根津坂となっています。その根拠はないかと古地図を国会図書館や各区役所の資料室や図書館にお伺いして調べてみましたところ”北坂”に関する興味のそそられる地図を見つけました。「五千分一東京図測量原図(東京府武蔵国麻布区桜田町広尾町及南豊嶋郡下澁谷村近傍)」という名の地図で、「今昔 東京の坂」に書かれてある通りの位置にある坂道に北坂とありました(上の図を見ますと、このころは北坂(笄坂)の反対側の現霞坂の道はなかったように見えます。)。地図の制作は明治十六年となっています大きな一枚図でしたので、北坂と書かれた部分とその周りの位置関係が判るくらいの範囲を都立図書館にてコピーを入手し、北坂がより見えるように切り抜いたものが左側の地図で、右側は文字が判読できるくらいに拡大した地図です。五千分一東京図測量原図の大きな地図の左上あたりに旧麻布区があり”麻布區”と書かれた文字の下あたりに”笄橋”の名が見え、その道の左には”牛坂”(地図上では牛の上が出ていないがない字のようです。)と書かれたいますが、不思議なのはその牛坂の上の方、今の六本木通りにあたる道の左側(現在の笄坂のあたり。)に”北坂”と書かれています。しかしこの地図の位置関係から見てここに書かれている坂は”北坂”このころにはそう呼ばれていたのではないかと推察されますが、現在も笄坂と言う坂碑はなくこの地図に書かれている”北坂”が正式名所王の坂ではないかと思いますし「今昔 東京の坂」の記述が正しいことが判ります。この地図の作成された年は明治十六年であり、上に述べた開削された北坂の年よりかなり以前に作成された地図でこの坂が昔から”北坂”と呼ばれていた坂で正しいのではないかと思いますし、これ以降明治三十二年になって開削された根津美術館横の坂(明治十六年の地図には崖の印は”TTTTT”(崖の印)はありますが道はありませんが何らかの理由で”北坂”としてしまったのか?この地図上の北坂はこの近辺の開発、特に六本木通りの開発により全く昔はなくなり、後になって笄川の上を通っていた坂道なので”笄坂”と名付けてしまったのか?この明治十六年作成の地図以外”北坂”との記述がある地図は見たことがなく、また坂や地形に関する本を見ましてもこの坂が”北坂”であると書かれた書物は「今昔 東京の坂」のみで大変不思議に思っています。とすると赤坂区史や御府内備考に書かれている北坂の位置が合わなくなってきます。また區史にある、「青山南五丁目と六丁目の間より麻布笄町に通ずる新開の坂道を北坂と稱す。従前、樹梢より滴る露と、崖陰より湧き出づる水とに汚れたる小徑一絛、蛇の如く通ずるのみなりしを、明治三十二年、土工を起こし開墾する。」の記述があいません。地図は區史より古く、こちらが本来の北坂であると思いますが、もう少しその根拠にこだわって調べてみたいものです。この近辺に関する資料や北坂に関する資料があればご提供していただければ幸いですが、資料の名前が判ればと思います。また専門の学識者の方々のご意見もお聞きしたいものです。
             
   こだわりの姫下坂  標高 (坂上)31m、 (坂下)20m、 差11m
   坂上  坂上付近は崖線が低い  低い崖線が続く
   下がるに従い崖線が高くなる  坂下付近の崖線  坂下 崖線と低地がはっきりと判る。
   笄川の流れを追いかけるためにこの辺りを何度も訪れるたびにこの崖を切り開いて造ったような坂道が気になっていました。いろいろな資料を見るにつけ「赤坂区史」に書かれている”従前、樹梢より滴る露と、崖陰より湧き出づる水とに汚れたる小徑一絛、蛇の如く通ずるのみなりしえを...”とあり、長者丸通りから通じる崖陰にある曲がりくねった坂道の供述にはぴったりの坂道ではないかと思えてならなく、何度も通ってみましたが坂標もなく、ご近所は新興の住宅ばかりで様子を知る方を見つけることもできず、しかしながら崖線といい、崖下の笄川の流れる低地といい状況はぴったしの坂道ではないかと思い掲載してみました。私の見た限りの資料では、この坂道に対する記述はどこにもありませんでしたが、少しこだわった見ました。坂の位置としましては、青山通りから長者丸通りへと入って細い一本道をしばらく歩いて行きますと写真上のような坂上から右側が台地上となっている崖線を削って作ったと思われる曲がりくねった坂道に出ます。坂下は青山陸橋下に出ますが、この辺は笄川の支流が合流する辺りでもあり、また開発が進んでいて、切絵図の時代とはかなり違がっていて川筋や道筋がはっきりとは読めない状態になっていました。
                        
             
  笄坂と書かれた坂のある地図を発見 (上の”北坂の不思議発見:「今昔 東京の坂」にある笄坂(北坂)の根拠”の古地図参照)
  「今昔 東京の坂」には”大横丁坂”の別名として”笄坂、富士見坂”と書かれておりましたが、別名の笄坂に関しては港区の坂を作成しているときにはあまり気にしませんでした。また港区の公式資料には現六本木通りが外苑西通りと交差する坂下に相対して、六本木方面に上る坂を”霞坂”とし、反対側、南青山方向に上る坂を”笄坂”(港区 観光マップ参照)としています。しかし、笄川の流れを追って何度となく区役所や港区の図書館を訪れたのですが、その時には見つけることができなかったのですが、都立中央図書館(有栖川宮公園内)を訪れた何回目かの時にある資料に巡り合うことができました。それは地図で「東京府武蔵国麻布區櫻田甼広尾甼及南豐嶋郡下澁谷村近傍」というタイトルで、明治十六年十二月第一測期第五測回と書かれていました。その地図の中央に「笄橋」がありその左側の坂道には「牛坂」と書かれていて、反対側(右側)に上って行く坂道(坂下付近にルーマニア大使館があります。)(港区の公式資料にこの坂には”大横丁坂”と名前が付けられていてます。私のHPにも”大横丁坂”として紹介しています。)の坂上の道(櫻田神社のある道:現テレビ朝日通り)にぶつかるあたりに「笄坂」と書かれているのを見つけました。実際の坂道には標識はありませんが、明治十六年の地図には笄橋を挟んで左側には”牛坂”があり、右側の坂には”笄坂”とあります(添付資料参照)。「今昔 東京の坂」の”大横丁坂”を読み返してみますと”別名笄坂は、坂下の笄川、笄橋に因む名である。”と書かれていました。この”笄橋”には「往古の東海道は澁谷金王八幡下から東へこの笄橋を渡って青山から赤坂方面へ抜けるものであった・・・。」(東京の橋:石川悌二著)と書かれてあり、この坂道を”笄坂”としているのは正しいのではと思います。またの別名には”富士見坂”とあり、御府内備考には「笄橋え之道筋二有之富士見坂と唱申候・・・富士山相見候二付・・・」とあり、その昔はきっと眺めの良い坂であったと偲ばれます。
             
                              
             
   さんさん坂  標高 (坂上)m、 (坂下)m、 差m
   さんさん坂上(手前は長者丸通り)  さんさん坂下  さんさん坂下の行き止まり
  長者丸通りと石碑     
     
さんさん坂と名前のある坂道は青山通りからAVEXの建物(現在解体中のため工事用の塀で覆われています。)に沿った細い長い道をしばらく進んで行き小さな十字路の角(南青山三丁目8番)の”三恵不動産”という不動産屋さんの角に”長者丸通り”と彫られた真新しい石碑があります。不動産屋の御主人にお聞きしたところ”長者丸通りは、ここから船光稲荷なでの通りの名だ。”と教えてくれました。また”長者丸商店会”というHPもあります。そんな中、建物解体のための塀に左のような張り紙があるのを見つけよく見ますと、AVEX敷地の裏の狭い狭い、しかも行き止まりになってしまう道が”さんさん坂”と名の付いた坂道となっていました。傾斜はあまりなく道も十数メートルで行き止まりとなり、行き止まりの正面にあるビルのレストランの炊事場に入ってしまうような道となっています。



             
   北坂と姫下坂に関するこだわりと、新しく見つけたさんさん坂の特集はいかがでしたか?特定の坂やその位置についてここまで突き詰めてみたのは初めてですがとても面白く有意義な時間を過ごすことができました。以後も面白い坂や川跡を探しながらこだわった見たいと思います。
             
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