この項では新宿区の北部にあたる中野区と豊島区の間に角のように突き出た部分(下落合二丁目から中井二丁目にかけて)の豊島台地の南側の崖線にあたりその崖線に沿って坂が並んでいるようにありそれらの坂道を歩いてみました。この崖線に沿って存在する坂は東は下落合二丁目あたりから新目白通りを西に進み途中中落合公園のあるところで崖線下を通る中井通りとなり一の坂から八の坂までありますが、これら一から八の坂までは東京都の指定した坂道ではなく、新宿区の指定坂のようで坂にある標識は青色の坂の名前は書かれていますがその坂の由来等はほとんど書かれていません。また、一の坂のある辺りは山手通りが走っていて開発が進んでいて一の坂自身も作り変えられているようです。またこれらの坂道周辺には林芙美子をはじめとする昭和初期の女流文士が多く住んでいたようです。
 まずはこの辺が武蔵野台地のどの辺にあたるかを地形図で見てみました。
 坂のある地域は下の地形図でもお分かりのように豊島台地の南側と淀橋台地の北側の間に挟まれた低地を妙正寺川が流れそれが神田上水に合流している部分でもあり標高も豊島台地や淀橋台地の35m位から妙正寺川近くの低地の20m位まで落ち込んでいる地形です。淀橋台地側から見たこの地形は淀橋台地の中の低地を通ってきた神田上水があり妙正寺川の間(上落合二丁目、三丁目あたり)は比較的に広くその分なだらかですが、妙正寺川の北側、豊島台地との川の間は狭くその分崖線も険しくなっていることが判ります。しかしながらこの辺りはもう江戸の町の外だったのでしょうか?切絵図にもなく時代の参考になる資料も見つかりませんでした。ただ新宿区役所・地域課の方のお話では”一の坂から八の坂は昔からあった訳ではなく昔から地域にお住まいの方々がこれらの坂に坂名を付け”中井町五の坂会”のように地域のコミュニティの場として坂名を付けて名のっている。”とのことでした。
 また、新宿区の資料にも「今昔 東京の坂」にも載っていませんが、一の坂の少し北側の山手通りから北西に入る坂道に”振り子坂”と”山手坂”と坂名の付いた坂道が山手通りからYの字型に上っている坂道がありましたのでここに掲載します。
   
   上の地形図の赤い線で囲った部分が今回の坂探しで歩いた落合の範囲です。その部分をもう少し詳しく拡大させたのが下の地形図(重ね図)です。 下の地形図(陰影)を見ますとよく判るのですが、坂道はこの地域の北側に位置する豊島台地から妙正寺川の流れている低地との崖線に沿ってあります。
   
    「今昔 東京の坂」の内北西部に載っている坂と、新宿区役所が発行している「新宿 歩」の内 「落合」に載っている坂道を参考に歩いてみました。まずは西武新宿線の下落合駅を下車し、新目白通りを高田馬場方向に少し戻った落合第四小学校のある坂道(相馬坂)から歩き始めました。
               
   相馬坂、七曲坂、久七坂、聖母坂、西坂、霞坂、市郎兵衛坂、見晴坂、六天坂、一の坂、二の坂、三の坂、四の坂、五の坂、六の坂七の坂、
八の坂、バッケの坂、ごりょう坂、振り子坂、山手坂、                
             
   相馬坂  標高(坂上)28m (坂下)16m 差12m
   相馬坂上の道  相馬坂上  相馬坂中のカーブ
   相馬坂下 この坂の標には『この坂に接する「おとめ山公園」は、江戸時代には将軍家御鷹場として一般人の立ち入りを禁止した御禁止山(おとめやま)であった。この一帯を明治時代末に相馬家が買い取って屋敷を建てた。この坂は新井薬師道から相馬邸に向け新たに通された坂道であるため、こう呼ばれた。』t書かれています。坂道は西武新宿線 下落合駅から 新目白通りを少し高田馬場駅方向に戻って落合第四小学校へ上がって行く道にあります。訪れた時は丁度下校時間だったようで、この坂道を元気よくかけ下りていく生徒が大勢いました。坂はゆっくりと左にカーブしながらしかし傾斜は激しく、坂下になって傾斜が緩んでいます。よくこんな坂道をかけ下りれるな!と小学生の元気さには驚かされながら上り下りした坂道です。左上の写真の左側に「おとめ山公園」がありますが滅びろとした平地になっていて子供連れのお母さんたちがのんびりと遊んでいました。坂下の道は氷川神社裏を通ていてけっして真っ直ぐではなく曲がりくねっていて昔道の様子を漂わせています。この道は豊島台地の南側崖線下と妙正寺川のある低地の間を通ていて昔の人たちの主要な道ではなかったでしょうか?そんなことを考えさせられる下道です。







             
   七曲坂(別名:七曲り坂)  標高(坂上)33m (坂下)16m 差17m
   七曲坂上  七曲坂上中  七曲坂のカーブ
   七曲坂のカーブ  七曲坂下のカーブ  七曲坂下
   この坂の標には『折れ曲がった坂であることからこの名がついた(「江戸名所図会」)。古くは源頼朝が近在に陣を張った時、敵の軍勢を探るためにこの坂を開かせたという伝説がある(「遊歴雑記」)。』と書かれています。ずいぶんと古いころからあった坂のようです。坂は相馬坂よりひとつ隔てた道にあり坂上はごく平坦な道のように見えますが、坂名の通り曲がりくねった道が続き途中からは傾斜もきつくなりアスファルトの道も滑りとめが施されたコンクリート道に換わっています。坂下はやや傾斜は緩くなったもののそのままゆっくりとカーブして氷川神社裏の崖線下道に出ます。写真下左にあるように坂途中のカーブのきつくなった左側に樹木のうっそうと生い茂っている大きなお屋敷がありこの辺は切り通しであるようです。「江戸名所図会」によりますと、坂上は「鼠山」と呼ばれた山があったようで陰影図を見ますと、坂右側が台地上であることが判ります。この台地上をそう呼んでいたのっでしょうか? 
             
   久七坂   標高(坂上)32m (坂下)17m 差15m
   久七坂上  久七坂途中のカーブ  久七坂下近くのカーブ
   久七坂下  久七坂下(左)と下道  坂下近くにある下落合瓣財天
   この坂の標には『「豊多摩郡誌」には、もとは田んぼへ行き来するための道で、急な坂であった。と記されている。坂名はゆかりのある村人の名にちなむものであろう。』と書かれています。坂は七曲坂から新目白通りをひとつ奥に入った崖線下の道をしばらく山手通り方向に進んだところにあり坂標のある坂上は傾斜もなくなだらかですが途中からは傾斜がきつくなりカーブもきつくコンクリートの滑りとめが坂下まで続く坂道です。坂下には中井通りから続いていると思われる下道的な道が曲がりくねっていかにもその時代と思われる道がこれらの坂の下に交わっています。また久七坂近くの下道に写真右下のような”下落合瓣財天”があり、そこには「下落合横穴墓群跡」と書かれた標があり、昔この辺から小規模ながら古代人が住んでいた遺跡が多く出土していると書かれています。
             
   聖母坂  標高(坂上25)m (坂下)17m 差8m
   聖母坂通り上  聖母坂中 聖母坂通り下
    この坂は東京都指定ではなく、新宿区の青い標柱になっています。坂は下落合駅前交差点から下落合四丁目交差点に向かって少し傾斜を持ちながらゆっくりとカーブして上がって行く長い長い坂道です。しかし、新宿区の発行している資料の「五感で楽しむ 新宿観光ガイドブック」(今は発行されていません。)には坂名は載っていますが、「観光マップ 新宿 歩」には坂名はありません。どこから付いた坂名なのかは坂上左に聖母病院と言う大きな病院がありその病院の前を通る坂道が聖母坂通りとなっていて”聖母坂”はここからとられ坂名のようです。
             
   西坂  標高(坂上)34m (坂下)19m 差15m
   西坂上  西坂中のカーブ  西坂中にあった老松(左)
   西坂中の急カーブ  西坂下  西坂下(左)と聖母坂通り(右)
  この坂の標には『西坂の名は、江戸時代後期の絵図に認められる(堀江家文書「下落合絵図」)。「豊多摩郡誌」には「西坂、新宿道、宇本村と字不動谷との間にあり」とある。かつて坂上にあった徳川男爵邸の牡丹園は盛時に一般公開され、落合の名所の一つとなっていた。』と書かれています。坂は下落合駅前交差点から斜め左に上がって行く道にあり、坂上には「かば公園」と「西坂公園」があります。坂は西坂公園横から急激に落ち込んでいる大変傾斜のきつい坂道で滑りとめのコンクリート道が坂下まで続いています。また坂下は聖母坂通りに交わります(写真下右)。この坂途中には(写真上右)なにか由緒があるのであろうか老松が繁りその松を守るように周りをコンクリートで囲って残されていました。(何か有名な松なのでしょうか?意識的に残したように思えました。)
                                  
 
   西坂上には西坂公園とかば公園がありますがそのほかにも私にとって”おっ”!”となったいくつかのことがらをここに紹介します。 
   行止まりの階段坂 
   西坂上横にあった路地入口  路地の先は行き止まり  竹藪の道のある民家
   この家と家との間の細い細い路地的な通路(ちゃんと敷石がある)は今は忘れ去られてしまっている路地で(両側がコンクリート塀で行き場がない。)かつては坂下まで続いていたと思われますが周辺の開発と私道であったのか?路地は行き止まりとなっていました。崖線・坂探しとしては大変興味のわく場所であったので載せてみました。   上の写真はかば公園横にうっそうとした竹林囲まれた
  一か所があり表に出てみたところご覧のような京都を
  思わせる民家の玄関道でした。
 
                       
   
   霞坂  標高(坂上)35m (坂下)23m 差12m
   霞坂上  霞坂下  新目白通りに出る霞坂下
   霞坂下が新目白通りに出る横にあった民家 この坂の標には『明治時代末に開かれた坂で、「豊多摩郡誌」には「大字下落合里俗中井より小学校前へ開穿(かいせん)したる新坂なり」とある。この坂下は一面の水田だったので、春かすみの立つ、のどかな田園風景が美しかったという。』と書かれています。坂は坂上を西坂と同じくする道に出、ほぼ鉤型に曲がっている大変に傾斜のきつい短い坂道です。不思議なのは坂道は長いのですが、上と下の標識は坂道の急傾斜の部分にあり写真上左のように坂下は新目白通りまでまだまた続いています?昔はこの坂下の標識のあるところまでしか道がなかったのでしょうか?不思議な坂道です。もうひとつ発見したのは坂下、新目白通りに出るところにある民家ですが、写真左のように右側は霞坂下の道に阻まれ、左側は暗渠になっている小川筋?に阻まれて極端に幅が狭い形をしています。大変興味があったので載せてみました。








 
             
   市郎兵衛坂  標高(坂下)30m (坂上)32m (坂下)24m 差2m 8m
   市郎兵衛坂の始まり(左)と山手通り(右)  市郎兵衛坂(左の電信柱前に標識がある)  市郎兵衛坂は民家の平坦道を進む
       
    この坂の標には『「豊多摩郡誌」によれば「市郎兵衛坂 中井道 字不動谷と前谷戸との間にあり」と書かれている。坂名の由来についてははっきりしない。この坂にゆかりのある人名をとったものと思われる。』と書かれています。坂は面白い格好をしていて、写真上左の山手通りと新目白通りが交差する中落合二丁目の交差点すこし新目白通りに進んだところから入る坂道が少し盛り上がっていてそこが坂の一番高い所と思われますが、標識はその手前の短い坂にあります。ですので坂はいったん上がりそこから徐々に民家の間を通りながらゆっくりと下って行きますが坂下に近づくと傾斜がややきつくなっていて左にカーブしながら新目白通りに出ます。西坂から市郎兵衛坂までは坂下をつなげる道はなく昔の人たちは西坂を上がり霞坂を下ってこの市郎兵衛坂のだらだらを上って行ったのではないではないでしょうか?もっとも「豊多摩郡誌」によりますとこの辺の低地は一面田んぼで台地上から田んぼへ下る道があれば十分で横道の必要がなかったのかも知れません。この辺はもう江戸範囲外なのか「江戸切絵図集成」にもなく地方の地元史を探すしかありません。
 余談ですが、「今昔 東京の坂」には市郎兵衛坂はなく一ノ坂の別名が市郎兵衛坂となっています。しかし新宿区が発行している資料を見ますと、また実際の現場に行きますとここが市郎兵衛坂となっています。




 
             
   見晴坂  標高(坂上)34m (坂下)19m 差15m
   見晴坂上  見晴坂中  見晴坂下
   見晴坂下と下道  この坂の標には『この坂上からの眺望は素晴らしく、特に富士山の眺めは見事であったという。坂名はその風景に由来するものであろう。なお、坂下の水田一帯は落合蛍の名所として知られた(「江戸名所図会」)。』と書かれています。坂下は六天坂と同じ坂下道(中井通りの続き。)にあり、坂下からは大きく右にカーブしながら坂途中はかなりの傾斜を持って坂上まで続いています。標によりますと坂下(中井通り)から妙正寺川までの一帯は昔田んぼであって季節には蛍が飛んでいた名所であったとされていますが現在は左の写真をご覧のように完全に住宅街となってしまっていてまったくその面影は見られません。












             
   六天坂  標高(坂上)34m (坂下)19m 差15m
   六天坂上  六天坂中と第六天(左)  六天坂下
   第六天の祠  第六天裏にあった小さな池(湧水跡か?)  
  この坂の標には『大正時代に開かれた坂道である。坂の上に第六天の祠が建っていたため六天坂と名付けられたという(「落合新聞」)。』と簡単に書かれています。坂上からかなりの傾斜で下り中ほどには第六天を祀る小さな社が人家の中にあり少し右にカーブしながら下って見晴坂と同じ坂下の道に出ます。大正時代に造られた道とのことで新しく新宿区の資料によりますと、第六天は社品赤にあります坂道左側のマンションあたりにあったそうですが、今はその下の民家の敷地の中に小さな祠が祀られています。第六天とは?と気にかかり新宿区役所にて新宿区史を調べましたところ第六天とは”怒り”の神様だそうである意味疫病神だそうですが、その厄病を追い払う意味を持つ上坂のようです。その謂れは古く源頼朝の時代にまでさかのぼるようですがそれ以上の詳しいことは判りませんでした。今ある第六天の祠の裏はれ句点坂道横で崖線となっていて写真上中のように湧水跡と思われる涸れた池がありました。ただ雨が降るとこの辺りの雨水がここに集まってくるのでしょうか排水口のような穴が金網で覆われていました。 
             
                           
   ここからは新宿区北西部(落合地区)にある一の坂から八の坂までを歩きました。これらの坂は「今昔 東京の坂」や新宿区の観光ガイド資料にも載っていますが東京都で建てた標柱がありません。その代わりに新宿区で建てた青い色の標柱があります。新宿区役所の方にお聞きしたところ「坂はいつの頃からあるのかは不明ですが豊島台地と淀橋台地の間の妙正寺川の流れが低地となって豊島台地側には古代人の住居跡も発掘されており古代から人が住んでいたようです。これらの坂は地元の方々が名付けてそれぞれ”〇〇の坂の会”と言うように町内会の会名にしているようです。」とのことでした。これらの坂は区の方が言われたとおり坂下は妙正寺川が流れる低地を走る中井通りとなり、坂上は中井御霊神社を行き止まりとする台地上を走る道(坂上通りと柱がありました。)に並んでいます。四の坂下横には林芙美子終焉の地の記念館があり、この辺には多くの文芸人が多く住んでいたようです。坂歩きは一番奥八の坂から一の坂の順に歩きました。一の坂は中央環状線・山手通りが通る道路のわきにあり坂下は現代的なコンクリートになっていますが、その一の坂の少し北側にどの資料にも載っていない坂が2つありました。振り子坂山手坂です。これらの坂にも青い色の標柱が建っていましたのでここに掲載してみました。しかし何の説明もありませんでした。どなたか御存じのかたがおられましたならご一報いただければと思います。 
   
   中井御霊神社と中井通り
   中井御霊神社の鳥居と本殿(奥)  中井御霊神社と坂上通り  坂下にある中井通り(中井駅方向)
   上の左の2枚の写真は中井御霊神社と神社へ通じる坂上通りです。八の坂から六の坂はこの中井御霊神社のある坂上通りに坂上があり、一の坂から八の坂ほぼすべての坂下は右の写真の中井通りに面しています。(一の坂は少し中央環状線を北に行ったところにあり一から八の坂すべての坂下が中井通りに面しているとは言えませんが。)上の陰影図を見ていただくとそれがよく判ります。 
                        
   
   バッケの坂                                     標高(坂上)35m (坂下)25m 差10m
   バッケの坂上とごりょうの坂上(左)  バッケの坂中  バッケの坂下
  この坂の標は坂下にあります。標には『この地域の斜面は古くからバッケと呼ばれており、この坂は坂下のバッケが原への近道であったため、バッケの坂と呼ばれていた。』と書かれています。この坂は東京都が指定する坂ではなく、区が指定している坂で坂標も区で建てたものだそうです。坂は落合地区をはしる目白台地の最西端に位置し、妙正寺川の流れる低地へとかなりの急傾斜で下っています。昔はこの辺りの低地を「バッケ」と呼んでいたようで、この低地を「バッケの原」と呼んでいたそうです。(新宿区のホームページより)。 
   「バッケ」とは「ハケ」ともいわれ、多くの湧水をよぶ段丘斜面を持つところを呼んでいたようです。有名なのは国分寺崖線で昔から「ハケ」と呼ばれていたようです。(世田谷区の資料、国分寺市の国分寺崖線の資料より)。ここ新宿区落合の目白台地西端の崖線を「バッケ」と呼んでいたそうです。(新宿区のホームページより)。斜面から湧水の流れ出る崖線地帯を「ハケ」、「バッケ」と呼んでいたようです。 
       
   ごりょうの坂                                     標高(坂上)35m (坂下)25m 差10m
   ごりょうの坂上  ごりょうの坂中のカーブ  ごりょうの坂下
   この坂の標は坂下にあります。この坂も都の指定坂ではなく、区が指定した坂のよです。坂上には「ごりょうの坂通り」と書かれた標識がありますが坂の説明はありません。坂上はバッケの坂上同じ道にあり、バッケの坂が直進に対して、ごりょうの坂は坂上でバッケの坂上すぐで直角に左折してかなりの勾配をもって、坂途中でやや直角に左折して下っています。 
       
   八の坂                                        標高(坂上)35m (坂下)25m 差10m
   八の坂上  八の坂下(青い標柱が見える。)  八の坂上(左)と中井御霊神社(奥)
   この坂の標柱は新宿区が建てた青色の柱です。柱には説明もありません。坂は豊島台地と淀橋台地に挟まれた妙正寺川が流れる低地を走る中井通りから上って行き中井御霊神社を行き止まりとする坂上通りに出ます。傾斜はまあまあありますが何の変哲もない一直線の坂道です。 
             
   七の坂                                        標高(坂上)35m (坂下)24m 差11m
   七の坂上  七の坂下  八の坂同様に青い標柱が坂下にあります。その右側の個人の家のブロック塀には”七の坂 中井町会”と書かれたこの地域の町内会のような木の看板が掲げられています。坂は坂上からかなりの傾斜を持って下っていますが、坂下付近になりますとその傾斜も緩やかになっている直線坂道です。












             
   六の坂                                        標高(坂上33)m (坂下22)m 差10m
   六の坂上 六の坂下   他の坂同様坂下に青色の標柱がありますが、坂名だけで何も説明はありません。坂は坂上は少し傾斜があり右にほんの少し緩やかに曲がっていますが、車が通るのでしょうか坂道には滑りとめが施されています。













             
   五の坂                                        標高(坂上)34m (坂下)23m 差11m
   五の坂上  五の坂下  五の坂上にある道(西側(手前)には目白大学がある)
  他の坂と同じく坂の標柱は青色でした。坂は目白大学キャンパスのある道を東に向かって行くと”五の坂通り”と言う標柱のある五の坂上にでます。そこからなだらかにゆっくりと右にカーブしながら下ってる道の途中から五の坂が始まります。 
             
   四の坂                                        標高(坂上)34m (坂下)23m 差11m
   四の坂上  途中からの階段坂と林芙美子記念館入口(左)  四の坂下(左に林芙美子記念館の石柱)
  この坂は階段坂です。その階段も3段になっていて途中2ヵ所の踊り場がある坂上からはその階段が見えないほど急傾斜の階段坂です。坂下付近には林芙美子の終焉の地が記念館となっています(有料)そのためか坂道も両側もきれいに整備されています。坂上途中の記念館裏に回ってみましたところ空地を注射女王にしたようなところがありましたので崖上に地被いてみましたところ、この崖線の急傾斜がよく判るところでもあります。坂上は目白大学のある坂上通りに交わります。 
             
   三の坂                                        標高(坂上)34m (坂下)23m 差11m
   三の坂上  三の坂下  この坂道には滑り止めが施されているほど狭い急傾斜の一直線の坂道です。両側には高いコンクリートの塀があり地元の方しか通らないような寂しげな坂道です。














             
   二の坂                                        標高(坂上)34m (坂下)22m 差12m
    新宿区史によりますとこの坂は二の坂以外にも”蘭塔坂”、”卵塔坂”、”乱塔坂”(いずれも”らんんとうさか”と読む。)とも呼ばれていたようです。
   二の坂上  二の坂仲  二の坂下
  この坂の標柱には『かつてこの坂の途中には墓地があり、蘭塔と呼ばれる卵形の塔婆があり、多くは禅僧の墓標として用いられた。』とあります。しかし面影は全くなく坂上からは大きく右にカーブしながら少しの傾斜を伴って中井通りに下って行きます。丁度中央環状線がこの二の坂下を高架で通っています。坂上には法華宗獅子吼会と言う大きなお寺があります。また新宿区史によりますと昔この辺は古戦場だったようでそれからも”乱塔坂”と呼ばれているといろいろな説があると書かれています。 
             
   一の坂                                        標高(坂上)34m (坂下)28m 差6m
   一の坂上  坂上左にある中井東公園  一の坂途中のカーブと階段(まっすぐ)
   一の坂下のカーブ  一の坂下の階段坂(階段上に標柱がある)  この坂は坂上から急傾斜の左に大きくカーブしながら下る道と坂途中から階段で直線に坂下の道に出る2方向があります。標柱はこの階段坂上にありますが青い標柱です。坂下は中央環状線へでるためこの辺の昔の様子は全くわかりません。陰影図を見ますとこの中央環状線が豊島台地の崖線を回り込むように低地を走っていてこれより東側とが分断されています。











    
   山手坂 と振り子坂   山手坂:標高(坂上)34m (坂下)27m 差7m   
        振り子坂:標高(坂上)34m (坂下)27m 差7m    
                                  
   正面の細道が山手坂、右の道が振り子坂へ  山手坂上  山手坂下
   振り子坂上  振り子坂下  この2つの坂道は坂下が交わって中央環状線に出ます。山手坂は坂上から一方通行となっているほど狭い急峻な坂道です。
一方振り子坂は比較的に平坦で坂下からはゆっくりとうねりながら上がって行きます。両坂とも資料には無い坂道ですが、各々の坂下に青い標柱が建っています。なんいか歴史のある坂道なのでしょうか?










                    
 以上が落合地域の坂道歩きですが、この地域の地形を振り返ってみますと典型的な台地と低地がはっきりと分かれています。この地域北側は豊島台地の南側外れにあたり、真ん中に妙正寺川が流れる低地となっていて、その南には淀橋台地が妙正寺川に沿って連なっています。豊島台地と妙正寺川との間は狭くその分台地から降りてくる道も急な坂道になっています。それに引き替え淀橋台地側は中野区の範囲にまで低地が開けています。また、中野区との区境には神田川が流れていて広い低地があることが判ります。豊島台地からの崖線下には妙正寺川に沿って続いている中井通りがあり新宿区史によりますと中野区にある新井薬師への参詣する道がいくつかありその中のひとつではないかと思われます。この台地の縁は古代から住民が小さなしゅらくを集落を造って生活していた遺跡跡が多く発見されているとのことで、台地上に集落を造り妙正寺川に沿った低地に田んぼを造って生活をしていたのでないかと思われ、それが江戸時代まで続いていたのではと想像します。このように地形学的には非常に興味のある地域で「崖線歩き」でじっくりと追いかけてみたいところでもあります。当然台地があり下を川が流れていたのならば雨が降れば台地から低地に向かって雨水が流れ落ちていき落ちしかそれが流れとなったり、地下にしみ込んだ水が崖線の途中から湧水として流れ出てきたりしてこの台地下あたりいったいには多くの湧水路があったようです。新宿区史によりますとこの辺りの台地は”落合丘陵”と呼ばれいくつか名前の付いた谷(不動谷、諏訪谷、等)もあったとのことです。有名な湧水の場所としては中落合三丁目にある”厳島神社”側にある不動谷に湧く湧水や、西坂上西坂公園や地域センターを含む一帯にあった徳川邸別邸にあった湧水池、聖母病院東側にあった諏訪谷に流れ落ちる湧水(今は聖母病院から小滝橋へ抜ける道路ができ跡形もなくなった。)があったとされその他にも多くの湧水があったとされていますが現存する湧水はないようです。
                     この項おわり  
             
     その2へ