千日坂、新助坂、出羽坂、薬罐坂、鮫河橋坂、安鎮坂、鉄砲坂、戒行寺坂、闇坂、観音坂、東福院坂、須賀神社男坂、須賀神社女坂、円通寺坂、女夫坂、高力坂、比丘尼坂、坂町坂、津の守坂、新坂、暗闇坂、茗荷坂、安保坂、かめわり坂,、大木戸坂
   
   ここでは新宿区の南東部(信濃町、四谷、市谷あたり)、南はJR信濃町駅、東側はJR中央線が続く外濠、西は外苑西通り、北側は靖国通りが走る範囲の内側の坂道を歩きます。 このあたりは淀橋台地が千代田区へと緩やかに下っている場所で、標高も30から高い所で40位あります。区境としておもしろいのは今の神宮外苑一帯(霞ヶ丘町)が新宿区になっていて丁度たんこぶのように渋谷区に入っています。この部分の地形は淀橋台地と麹町台地の南の境目、迎賓館の南の部分からの低地が今の信濃町辺りを通り四谷三丁目あたりまで深く食い込んでいます。その食い込み部分に沿って坂道が展開しています。北側には平川の流れ跡にあたる外濠から市谷橋あたりから靖国通りに沿って(靖国通りがこの低地部分を通てます。)四谷四丁目と富久町の間辺りまで切り込んでいるところにもその低地に沿って坂道が存在します。
 渋谷区との区境にあるふたつの坂道(鮫河橋坂、安鎮坂)につきましては、安鎮坂は渋谷区に、鮫河橋坂は新宿区に入っています。ですが「新宿区地図」では安鎮坂も表示されていますので取り上げました。重複になりますが「渋谷区の坂」編でも取り上げようと思います(渋谷区の資料ではこの坂は「権田原坂」となっています)。
 ”Google Earth” で確認ができます坂の坂下と坂上の標高を”坂上”、”坂下”、”標高差”として表しても見ましたので凡そですがその坂がどれほどの傾斜を持っているのかもよく判ると思います。しかし残念ながらその坂道がどこからどこまでが標に示されている坂なのかがはっきりとは判りませんので、坂道の長さが表せません。どなたか坂の長さを図る方法がありましたなら教えていた開ければと思います。それにより標高差が判り、坂の長さが判れば、その坂の角度(斜度)計算でき、どれくらいの角度を持った坂道なのかも判ってきます。これらを知るためのなにか方法も模索中です。
   
             
   千日坂(別名:久能坂、久野坂)   標高(坂上)34m (坂下)24m 差10m
   千日坂上  千日坂中  千日坂下
  この坂の標には『この坂道の下の低地は、一行院千日寺がある千日谷と呼ばれた(「紫の一本)」。坂名も千日寺にちなんで名づけされたと考えられるがかつての千日坂は消滅し、現在の千日坂はそれと前後して造られたいわば新千日坂である。』と簡単に書かれています。では以前の千日坂はどの辺にあったのかは全く見当が付きません。坂は信濃町駅南口を青山一丁目方向に行く外苑東通りすぐ横からS字にカーブしながら下っていく急傾斜の坂道にあります。坂下左側には千日寺があり、この辺りだけが西側を明治神宮外苑に、東側は赤坂御用地に挟まれ、坂上のにぎわいに比べ、坂下はひっそりとした昭和のたたずまいの残る町並みです。地形的にも明治神宮外苑と赤坂御用地に挟まれた谷地が入り込んでいて、この千日坂があるあたりが谷地の行き止まりになっています。しかしながら行きかう車の多い坂道でもあります。 
             
   新助坂(別名:スベリ坂、久能坂、久野坂、千日坂)   標高(坂上)33m (坂下)20m 差13m
   新助坂上  新助坂下  この坂の標には『「新選東京名所図会」には、「新助坂は四谷東信濃町に上がる坂なり、一名をスベリ坂ともいふ、坂の下には甲武鉄道線の踏切遂道門あり」と記されている。明治三十年代中頃には、新助坂の名で呼ばれていた。』と書かれています。坂は千日坂を行き止まりとする谷地から南元町を上がって行く非常に急傾斜の坂道で坂下はJR中央線の高いコンクリート塀に突き当り左折するしかなく左折した道を進んでいきますと出羽坂に通じる起伏にとんだ地形を物語っている坂道です。坂上からは現在は両側の建物で視界を遮られてしまっていますが、その時代には非常に眺めの良い、もしかしたなら富士山も見えたのではないかと想像できる坂道です。





             
   出羽坂   標高(坂上)27m (坂下)20m 差7m
     
   出羽坂上  出羽坂中  出羽坂下
  この坂の標には『明治維新後、この坂上に旧松江藩主であった松平伯爵の屋敷が移転してきたため、こう呼ばれるようになった。松平邸内に修徳園と呼ばれている名庭があったが、太平洋戦争後取り壊された。』と書かれています。坂は崖線上にある新助坂上の道を信濃町駅方向からJR中央線に沿った道を傾斜を持って大きく左にカーブしながら下って行きます。JR中央線のこの辺は信濃町駅辺りの高台と鮫河橋坂や藥罐坂のあるもう一方の高台の間の低地を通っているため出羽坂のある道に沿って盛土をしてその高さを合わせていますが、赤坂御用地内(港区に属します。)から続く低地が四谷三丁目まで深く入り込んでいるような地形になっている台地の先端にある坂道です。
             
   安鎮坂(権田原坂、権田坂、権太坂、権太原坂、安珍坂、信濃坂、品野坂、科野坂)   標高(坂上)31m (坂下)17m 差14m  
   安鎮坂上  安鎮坂中   安鎮坂下
   この坂の標には『付近に安鎮(珍)大権現の小社があったので坂の名になった。武士の名からできた付近の地名によって権田原坂いう。』と木標に簡単に書かれています。この坂は港区に属するようですが赤坂御用地北側を通る鮫河橋坂と同じ道にありましたので「港区」編でも解説していますが鮫河橋坂とで薬研のような形になっていましたのでここにも載せました。また坂名も大変多くの別名を持った坂道でもあります。坂は浅いですが大きくゆったりとS字に曲がっておりまあまあの傾斜を持ちながら鮫河橋坂のある方へと下っています。高低差がかなりありますが坂道が長いので傾斜もそんなには感じません。坂上は明治神宮外苑に阻まれてT字となっていて外苑東通りにぶつかります。坂上に”権田原”の文字が見えます。大変広くきれいに整備されている坂道です。 
             
   鮫河橋坂(別名:鮫ヶ橋坂、紀伊国坂、大坂)    標高(坂上)28m (坂下)17m 差11m
   鮫河橋坂上  鮫河橋坂下          
   この坂の標は見つかりませんでした。坂は港区との区境にあたり赤坂御用地北側に沿って坂下は”安鎮坂”下となり、坂上は若葉町公園をへて四ツ谷駅手前で外堀通りに交わります。坂道左側には赤坂御用地の塀が続き、反対側には学習院初等科の塀がある長い長い坂道ですが、坂下の傾斜は緩やかですが坂上辺は少し傾斜があり安鎮坂に続く整備された大変きれいな坂道です。右の江戸名所図絵は鮫河橋があった付近にある案内板にあった絵図です。が、この絵図に描かれた鮫河は小川くらいの川であったことが判ります。また鮫河橋も小さな橋であることが判ります。”鮫河橋坂”と坂名が付いていたのでこの”鮫河”もどれくらい大きな河であったのかと思っていましたが、小川を少し大きくした程度の川で”河”と名前が付いていることが不思議な気がします。
             
   薬罐坂   標高(坂上)28m (坂下)26m 差2m
   薬罐坂上  薬罐坂下  この坂の標は見つかりませんでした。坂は、鮫河橋坂の坂の途中、みなみもと町公園上(北側)を入っていくあまり傾斜のない一直線の短い坂道で坂上はJR中央線上をまたぐように「朝日橋」が架けられています。いつごろからの坂道かと「今昔 東京の坂」を調べてみましたところ、「御府内備考」に「薬罐坂と唱候、往古一円ニてけはしき坂の由・・・・」とあります。また同書内には「風紀の良くな場所であった。そこで遊女−人を騙す野干(やかん:狐)−薬罐と転訛したと考えられる。」とあります。あまり風俗の良くない一帯であったようで、この坂はその頃からあった坂道のようです。しかし、新宿区の観光マップの「四谷」編には道はありますが坂道名は書かれていません。「今昔 東京の坂」の解説から言ってこの坂道であると思います。




             
   鉄砲坂(別名:稲荷坂)    標高(坂上)27m (坂下)19m 差8m
   鉄砲坂上  鉄砲坂中  鉄砲坂下
  この坂の標には『江戸時代、この辺りに御持筒組屋敷があり、屋敷内に鉄砲稽古場があったために、鉄砲坂と呼ばれるようになった。また以前は、この地に赤坂の鈴降稲荷があったため、稲荷坂と呼ばれていた。(「御府内備考」)』と書かれています。坂は四谷三丁目を谷地奥とする低地に沿って並んでいる坂道の低地の入口側にあり坂上で鉤型に曲がっている少し傾斜のある坂道ですが、鉤型に曲がる手前(坂標の立っているところ)から一直線に下って坂中で直角に左折して下っているまでが(坂下にも坂標がありましたので。)この坂名の坂のようです。新宿区の「観光マップ」四谷編にあるこの坂道は一直線にしか書かれていませんが、実際の坂道の木標のある範囲は上に説明したように坂上から途中左に折れた坂下にも”鉄砲坂”の木標がありましたので、ここでは実際の木標のある方を坂道範囲としました。 
             
   戒行寺坂(別名:油揚坂、油坂)    標高(坂上)30m (坂下)19m 差11m
   戒行寺坂上  戒行寺坂下  坂上にある戒行寺と坂標
  この坂の標には『戒行寺の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺にちなんでいる(「御府内備考」)。別名「油揚坂」ともいわれ、それは昔坂の途中に豆腐屋があって、質のよい油揚げをつくっていたからこう呼ばれたという。(「新選東京名所図会」)。』と書かれています。坂は鉄砲寺坂下と同じ道が坂下となっています。坂上には標に示すように”戒行寺”があり、鮫河橋坂方向から四谷三丁目方向に淀橋台地を深く切り込んでいる低地の中ほどにあり、車がやっと通れるくらいの細い道にありかなりの傾斜を持っています。生活道路のようですがご近所の方しか通らないような道筋です。 
             
   闇坂(くらやみさか戸読みます。別名:乞食坂、茶の木坂)   標高(坂上)32m (坂下)22m 差10m
   闇坂上  闇坂中  闇坂下標
  この坂の標には『この坂の左右にある松巖寺と永心寺の樹木が繁り、薄暗い坂であったためこう呼ばれたという(「御府内備考」)。』とごく簡単に書かれています。坂は今も残る松巖寺と永心寺がある道にあり、階段こそないものの非常に急傾斜の坂でコンクリート道に滑り止めのために横に刻みが入れられているほどの傾斜を持つ坂道です。坂道の周りにはお寺がひしめき合った建てられた住宅地の一画にあり今でも路地的な細いこの近辺の人しか通らないような狭い直線の坂道です。なんで別名:乞食坂なんて坂名が付いたのかを「今昔 東京の坂」で調べましたところ、「寺が近く、門前に乞食が住みついたのに因む名・・・・」とありました。今は住宅に囲まれており想像もつかない坂道ですが、「昼なおさみしいい人も通らない。」はそのまま残っているようです。 
             
   観音坂(別名:西念寺坂、西念坂、潮踏坂、潮干坂)  標高(坂上)32m (坂下)20m 差12m
   観音坂上  観音坂下  この坂の標には『この坂の西脇にある真成院の潮踏観音にちなんでこう名づけされた。潮踏観音は、潮干観音とも呼ばれ、また、江戸時代に西念寺の表門が、この坂に面していたため西念寺坂ともいう。』と書かれています。坂は坂上から見て右に西念寺、左に真成院と蓮乗院の高い塀に挟まれたコンクリート道に滑り止めの丸いへこみがあり、細い歩道には手すりが設けられた傾斜のきつい坂道です。この坂道も他と同様に鮫河橋坂方向から四谷三丁目方向に淀橋台地に食い込んでいる低地を坂下としています。









             
   東福院坂(別名:須賀坂、天王坂)   標高(坂上)33m (坂下)22m 差11m
   東福院坂上  東福院坂下  この坂の標には『坂の途中にある阿祥山東福院に因んでこう呼ばれた。別名天王坂は、明治以前の須賀神社が牛頭天王社と称していたためこの辺りが天王横丁と呼ばれていたことによる。』と書かれています。坂は、須賀神社の階段坂(須賀神社男坂)の向かいの傾斜に位置しており新宿通りからの須賀神社への参道のような道にあります。新宿通りから少し入ったところから傾斜が始まりかなりの角度を持って下っています。「今昔 東京の坂」にはこの坂を”須賀坂”として別名に東福院坂と書かれていますが、ご近所の少しお年を召した方々にお聞きしても”須賀坂”とは言わず、「あそこに坂道があるけど坂の名前は知らない。」と言っていますし、坂標も”東福院坂”となっていました。






             
   須賀神社男坂・女坂   標高(坂上)31m (坂下)22m 差9m
   須賀神社男坂上  須賀神社男坂下  須賀神社男坂からの遠景
   須賀神社女坂上  須賀神社女坂中  須賀神社女坂下
  この坂の標は見つかりませんでしたが須賀神社への参道にある階段坂道で、都内の多くにある丘上(岡上、崖線上)にある神社への上り下りするための階段坂です。この須賀神社男坂・女坂もその例にたがわず神社への直接上る男坂といったん息のつけるように休み所のある女坂となっています。両方とも階段坂で低地から高台の須賀神社までの高低差がきついことが覗えます。階段上から低地を隔てて反対側の東福院坂が眺められます。 
             
   円通寺坂  標高(坂下)33m (坂下)25m 差8m
   円通寺坂上  円通寺坂下  この坂の標には『新宿通りから、四谷二丁目と三丁目の境界を南に円通寺前を下る坂。坂名は、円通寺に因むものである。』と簡単に書かれています。坂は標にあるとおりに坂中右側にある円通寺前を通過してすぐに左に緩やかにカーブしている道にあり坂自身もしゃしんのとおりゆったりとした傾斜のない坂道です。坂道下で左にゆったりとカーブしていますが、坂道の標がそのカーブ手前にあったため標とカーブし始めが判るような”円通寺坂下”の写真を写しました。新宿通りの賑わいから普通の住宅街へ下っていく坂道でもあります。








             
   女夫坂(めおとさかと読む 別名:夫婦坂)  標高(坂上)33m (坂下)29m 差4m  (坂上)32m 差3m
   女夫坂上入口  女夫坂上  女夫坂下
   この坂の標は見つからいませんでした。またどこからどこまでが”女夫坂”なのかが非常に見つけずらい坂道です。坂は新宿通り左門町と須賀町の間を入る忍原横丁と呼ばれる通り、路地的なまっすぐな道にあり、新宿通りからはしばらく下っているように見えますが、なかほどでごくごくゆったりと上っているように見え、またゆっくりと下っているような、非常になだらかにうねっている坂道です。そのまま真っ直ぐに進むと須賀神社横に出ることができます。
             
   高力坂  標高(坂上)23m (坂下)19m 差4m
   高力坂上  高力坂中  高力坂下
  この坂の標は見つかりませんでした。坂は、広いきれいに整備された外堀通りにありJR総武線市ヶ谷駅から外濠公園に沿ってゆっくりと大きく右にカーブしながら四ツ谷駅方向に下っています。「高力坂」の由来は、「今昔 東京の坂」によりますと、「昔この辺に幕士高力家があり、大きな松の枝が通りまで張り出していてその松を以て此の名がある。」とされています。今となってはすっかり様が変わってしまっていてその面影を見ることもできませんが、その高力家の場所は「江戸切絵図集成」を見てみますと丁度右にカーブする手前に”高力小次郎”と書かれたあまり広くはありませんが屋敷が書かれています。写真上中の横断歩道の左手手前あたりがその場所のようです。この外堀通りは「江戸切絵図集成」の書かれた頃から大変広い通りのようですが、俗に言う”見越しの松”の風情だったのでしょうね。 
             
   比丘尼坂  標高(坂上)20m (坂下)17m 差3m
   比丘尼坂上  比丘尼坂下  この坂の標には『「御府内備考」によると、昔、この坂の近くの尾張家の別邸に剃髪した老女がいたことから、こう呼ばれたという。』と書かれています。高力坂の曲がり端にある一直線の坂道を少し下ったところに直角に小さな坂道がありそこに坂道の標が立てられていました。さかは、ごくごく短い直線で坂上と坂下には標が立てられてありましたので町巖愛と思いますが、ほんの短い坂道です。坂は坂道上の標のある場所から少しほんの緩やかな下りとなっていて少し進むと傾斜のある坂道となりますが坂下でまた緩やかになっています。「江戸切絵図集成」を見てみますと、高力家の横に道があり今は真っ直ぐ下まで伸びていますが、このころはこの”比丘尼坂”のある道に曲がるしかなくまた”比丘尼坂”下で直角に曲がって今の靖国通りに出られれように書かれています。また、坂下角あたりに「尾?藩中」と書かれた屋敷があり、それがこの標にある別邸ではないかと思われます。


             
   坂町坂  標高(坂上)29m (坂下)19m 差10m
   坂町坂上  坂町坂中  坂町坂下
   この坂の標には『坂名は「坂町」という町名にちなんで、呼ばれていたようである。「御府内備考」では、坂の名称はつけられていないものの、百メートルを越す長さがあることが記されている。』と書かれています。坂は、靖国通りから坂町に少し入ったあたりにあり、坂町から三栄町に上がって行きます。坂上からは傾斜もなくゆっくりと左に曲がっていきますが、坂中からは少し傾斜がくわわります。街中の小道といった感じのする坂道ですが商店もなくほんとうにひっそりとした道にある坂です。「江戸切絵図集成」にも坂道名も坂の印(|||)も書かれていませんが、坂町坂のある道の両側に”坂丁”という名のついた町人町が書かれておりここからこの坂道が「坂町坂」と呼ばれたということがよく判る坂道です。
             
   津の守坂(つのかみと読む 別名:荒木坂、新木坂、小栗坂)  標高(坂上)32m (坂下)20m 差12m
   津の守坂への表示板  津の守坂上  津の守坂下
  この坂の標には『荒木町と三栄町の境を靖国通り手前までくだる坂道である。別名を小栗坂ともいう。昔坂上の西脇に松平摂津の守の屋敷があったのでその名を略して津の守坂と称した。』と書かれています。坂は説明の通り、新宿通りから四谷二丁目の信号を荒木町方向に行く広いきれいに整備された道にあり新宿通り横には写真左のようなりっぱな表示板がありますのですぐにその道奥が”津の守坂”であることが判ります。新宿通りを四谷二丁目から三栄町方向に入り道平坦なをしばらく進みますと三栄町交差点信号のあるあたりからやや傾斜のある坂がありそこが”津の守坂”である標が立っています。坂下は靖国通りに出ますが、坂道自身は手前までのようです。 
             
   新坂  標高(坂上)30m (坂下)22m 差8m
   新坂上  新坂中  新坂下
  この坂の標には『全勝寺から靖国通り手前まで下る坂道で、明治30年代後半の道路新装によりできた坂道である。江戸時代には、甲州街道から全勝寺まで杉の木が連なる「杉大門」通りが延び、新坂ができて靖国通りまで通じることになった。「今は杉樹は伐採し、其の路は新道に通じて、直ちに市谷に達っせり」という光景であった(「新選東京名所図会」)。』と書かれています。坂は新宿通りを四谷三丁目で外苑東通りを少し進んだところに荒木町と舟町間を外苑東通りとは斜めになって靖国通り方向へと下る直線道にある坂道です。坂上は比較的になだらかな坂道ですが途中から2段坂的に傾斜がきつくなって坂下に辿り着きます。幹線道路の横道なので昔の道と思いましたが、標には明治30年頃に出来たとのことで期待値が半減。坂上右側は高台にお寺があるためかコンクリートの壁が続いています。 
             
   暗闇坂(別名:くらがり坂、暗坂(新宿区の地図では))   標高(坂上)32m (坂下)22m 差10m
   暗闇坂上  暗闇坂中(階段坂手前)  暗闇坂(階段坂上)
   暗闇坂下 この坂の標には『四谷北寺町へ出る道で、坂の左右に樹木が生い繁って暗かったためこの名がついた(「再校江戸砂子」)。別名「くらがり坂」ともいう(「江戸名志」)。江戸時代坂上一帯は多くの寺院が並び、四谷北寺町戸「呼ばれていた。』と書かれています。坂上からは住宅街をごくなだらかに下っていて途中から急傾斜の階段坂となって靖国通りへと出る階段坂がこの”暗闇坂”と思っていたのですが、階段坂の上に道の真ん中にこの坂の標が建てらてていて珍しくも思い坂はこの階段坂のみかと思いましたが、坂上を少し進んでいきますとあまりよく見えないと思いますが左上と中の写真にあるコンクリート塀の中ほどの電信柱の影にもこの坂道の標がありました。また階段坂上を右にカーブしている坂道があり”暗闇坂”はこっちの坂道であることに気が付きました。「今昔 東京の坂」にもこっちの坂道が”暗闇坂”であることが書かれています。








 
             
   茗荷坂(別名:蓑荷坂)   標高(坂上)32n (坂下)24m 差8m
   茗荷坂上  茗荷坂下  この坂の標には『この辺りは、市谷の饅頭谷から西南に続く谷で茗荷谷と呼ばれ、茗荷畑であったという(「江戸名勝志」)。坂名はそれらにちなんだのであろう。』と書かれています。坂は坂上で靖国通りにある”安保坂に交わる靖国通りから少し外苑西通りに入ったところを”東長寺”と”源慶寺”の間へと大きく右にカーブしながら下るやや傾斜のある短い坂道です。今は靖国通りと外苑西通りと2つの大きな通りに挟まれた間道のような道となっていていますが、切絵図の書かれて頃は靖国通りは真っ直ぐではなく、この茗荷坂にいったん入り、また靖国通りに出るという道筋になっていましたが今は脇道となり御多分に漏れず運搬車やタクシーの休憩場所となっています。






             
   安保坂  標高(坂上)33m (坂下)24m 差11m
   安保坂上  安保坂下  この坂の標は見つかりませんでした。坂は靖国通りにあり富久町西の信号から富久町の信号へとゆっくりとおおきく右カーブしながら大きく下っていく整備された大きな道路です。訪れた時には坂上で道路工事がありご覧の通りな見栄えの悪い写真となってしまいました。坂上の茶色いマンションの裏手には茗荷坂があります。なんで安保坂という名が付いたのか区役所に行って確認です。










             
   かめわり坂  標高(坂上)34m (坂下)32m 差2m (坂上)34m 差2m
   かめわり坂上  かめわり坂中  かめわり坂板
   この坂の標は見つかりませんでした。坂は靖国通りにあり御苑大通り交差点から新宿一北の信号までで、どの辺が坂上でどの辺が坂下になるのかもわからないほどですが、ほんの少し波打っています。なぜこんな坂道名なのかを「今昔 東京の坂」で調べようとしましたところ載っていませんでした。新宿区でいただいた資料(「新宿区観光ガイドブック」、「新宿歩 四谷」)にも載っていませんでしたが、「かめわり坂のかめは“瓶”で、おなか(腹)のことを言う。腹が割れるというのは、子供が生まれることを意味する。厚生年金会館前、靖国通りにかってあった坂。」(「江戸の坂 東京の坂」より)
             
   大木戸坂   標高(坂上)33m (坂下)27m 差6m 
   大木戸坂上(大木戸側から)  大木戸坂下  富久町側から見た大木戸坂下
  この坂の標は見つかりませんでした。しかし、新宿区が発行している資料の中の「四谷」の地図の中に靖国通りと新宿通りを結ぶ外苑西通りに”大木戸坂下”と言う交差点表示がありましたので行ってみました。坂の標識が見つからず外苑西通りを四谷四丁目と富久町の間を数往復してみました。四谷四丁目と富久町を結ぶあいだの道は丁度薬研のようになっていて、両側が坂上で大井戸坂下の標識のあるところが薬研の一番下にあたります。坂は四谷四丁目を坂上として外苑西通りを富久町へと大きくゆったりと右にカーブしながら下って行く傾斜もあまりない坂道です。考え方として四谷の大木戸があった場所は四谷四丁目の新宿通りと外苑西通りの交わるあたりにあったということが四谷四丁目の交差点に碑らしきものがありますので、そちらが大木戸坂上にあたると思い上の写真を撮りました。坂下は道路が分離されていて横断するところもなくいい写真が撮れませんでした。「今昔 東京の坂」には載ってなく、この坂の謂れは不明です。「江戸切絵図集成」が描かれた時代には新宿通り(甲州街道)はありますが、外苑西通りはなく、内藤駿河守の屋敷東側を通る道は余水吐の水路に沿って(大木戸から南側)ありますが、”大木戸”から北側への道はありません。新宿通り(甲州街道)が四谷御門脇から内藤新宿へと通っていますが、南北に走る”外苑東通り”も”外苑西通り”もなく、甲州街道の左右には細い道(〇〇横丁と名が付いている。)がたくさんあるだけです。今とは大変違っています。
             
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