上にある2種類の重ね図は現学習院大学目白キャンパスを中心にした旧高田村のあたりを示した図です。学習院大学が目白通りを挟んで高台の端一帯にあることが判ります。今回新しく取り入れた方法で示した重ね図は”歴史的農業環境閲覧システム”と言うもので”Google Map”に明治初期から中期の農業状況の地図を重ね合わせることが出来ます(”歴史的農業環境閲覧システム”と言うユーティリティーにつきましては下記の案内を参照してください。)。この重ね図により現代の様子と明治時代の様子がよく判ります。当時の高田村一帯は”田”、”茶”、”竹”と言った文字を見ることが出来、そのほとんどが農耕地であった様子が見て取れます。
 目白駅すぐにある学習院大学目白キャンパスの敷地はかつて北豊島郡高田村と呼ばれていた農村地帯でした。「北豊島郡誌」によりますと学習院キャンパスのある辺りは「村は高地ヲ現出するも、村の南端は神田上水流るヽを以って、その附近一帯は低下せり。・・・」 とあり目白キャンパス内を歩いてみますと(見学には正門で警備員さんの許可を得て”Visitor”の札を首からぶら下げて見学者であることを明示する必要があります。また、人物を写さなければ写真を撮ることも許可を得ました。)、正門からは平坦ですが”血洗い池”近くになりますと急に傾斜がかかってきます。その”血洗い池”は目白キャンパス内の西側の低地にありかなりの高低さを以て下って行きます。血洗い池の南西部の高台には”富士見茶屋跡”や”芭蕉の碑”があります。またその東側の平坦な部分には”乃木館”、”旧皇族寮”、道しるべの石柱(3ヵ所)などもあり史跡マニアにとっては散策するのには格好の場所となっています。私は明治以降にはあまり興味はありませんが、江戸時代に歩いたであろう幾筋かの道が校内を走っていてその角々に道しるべがあったことにとても興味を持ち歩いてみました。訪ねた時(平成27年10月16日)はあまり下調べもなくなんとなく豊島区で入手した豊島区立郷土資料館発行の”歩く・聞く・写す”に載っていた古地図で道しるべの位置を頼りに尋ねましたが載っていた地図とは様子がまったく変わってしまっていて(あたりまえですが。)、学校の事務の方と思われる人にお聞きしましたがまったくわからず”血洗いの池”方向から歩き始めました。校内を少し奥に歩いていきますと北西方向に傾斜している地が建物横に見えましたのでその傾斜を歩いていきますと遊歩道と思われる木材で仕切った階段があり、それを下って行きますと目の前に”血洗いの池”が現れます。池と言ってもかなりの大きさがあり池を周回するようにけもの道としか見えない狭く草木に覆われた細い道がありその道を一周してみました。池の中ほどには橋があり池を横断することが出来ます。
 それでは旧高田村の史跡をお楽しみください。
   
歴史的農業環境閲覧システム・ユーティリティを得るには:
「歴史的農業環境システム」は”国立開発研究法人 農業環境技術研究所”と言う法人が公開してるホームページ内の”歴史的農業環境閲覧システム(迅速測図)”を検索していただくとその使用方法が書かれています。その”歴史的農業環境閲覧システム(迅速測図)”の案内により迅速測図を”Google Map”内に取り込みます。この操作をすることによりMap内の”場所”に”歴史的農業環境閲覧システム”が取り込まれます。この農業環境閲覧システムに表されている地図の時代は明治初期から中期の農業の状況を表していると説明されています。
             
   校内に残る史跡 
   血洗いの池(高田町史では”溜池”とされている。) 
   池への道  池上からの遠景  池への階段
   池中にある橋  池横の道  池横の道
   池奥(西側)からの景色  池奥(西側)から橋を見る  池奥(西側)にある池説明
   池からの排水場所? 池の位置は校内東南隅に校内平坦地(標高約30m)から見て標高約22mの場所にありかなりの高低差で池水源は湧水だったようです(現在はどうなっているか不明、また排水場所もよく判らず。)。池は西門から少し歩いたところにある建物の脇にけもの道のような道があり(写真上段左)そこから坂の土を木で止めた階段(写真上段右)で池へ降りることが出来ます。ご覧の通りうっそうとした樹木に覆われて池のあるところまで下りなければ池の大きさが見られません。池の横には周回路のような小路があり歩くことが出来ますがほとんどけもの道のような状態で真夏には訪れない方がよいと思うくらいに草木が生い茂っています。池の中央付近には池を横断する橋があります。池には鯉と思われる大きな魚がいますが溜池のようでほとんど流れは感じません。そのまま周回路を歩いて池奥(南西側)方向に行きますと、池の尻あたりの周回路そばに説明が建っていますが、その説明には「赤穂浪士の一人堀部安兵衛が、高田馬場の決闘で叔父の仇を討った際、この池で刀を洗ったことから名付けられた---。いつの頃からか、先輩から後輩へ伝えられているこのエピソードは、大正時代の高等科生たちによって作られてもの。元々は湧水でできた池で、かつては灌漑に用いられて、水門があった。---」とあります。明治時代に作成された「迅速測図」を見ましても目白校のある台地から西側にかなりの傾斜(等高線)が入り組んでいる。)の低地部に池が描かれています。池に関して豊島区役所や図書館に行き調べてみましたところ「十方庵遊歴雑記」(著者:沢 敬順 発行者:江戸○書刊行會 発効日:大正五年八月十四日)「著者が江戸付近の名勝を遊歴調査したる紀行文なり。」と説明された書物に「溜池の懐菖といふは、むかし高田の用水なり、廣き方數拾間ふじみ坂四家町出るの閑道にあり、見下ろすばかりに低し、四邊今雜樹繁茂し、木の間より見ゆるもの是也。むかし何某の卿の影を寫し見賜ひしとして、面影の池とも又形見の池ともいふとなん。彼師頼卿(モロヨリ)のすがたの池の枯芦の歌に似寄て此溜池の枯芦を賞する雅人もあるよし。」と書かれています。区の資料には”この池は灌漑用水として使われていた。”とあります。
             
   芭蕉の碑、富士見茶屋跡、鳩魂碑、等 
   鳩魂碑  世若堂と刻まれた石柱  皇后陛下行啓?記念碑
   芭蕉の句碑  富士見茶屋跡付近から見た富士見坂(左)と遠景         
       富嶽三十六景 富士見茶屋の図
  池のある台地脇の樹木の生い茂った小道を歩いていますといくつかの史跡があります。まず目に入ったのは”鳩魂碑”と彫られた石碑です。その石碑のそばにある説明には”昭和13年伝書鳩部が亡くなった約300羽の鳩の魂を鎮めるための碑を建てた。”と彫られています。そのまま少し進みますと右側に下って行く(写真上中)石をまばらに敷いた坂道がありその角に”世若堂”と彫られた石柱があります。この坂下には茶道部があるようです。そのすぐ左側(坂上部)にはまとまって”皇后陛下行啓記念”の碑、富士見茶屋跡の説明と芭蕉の句碑があります。「高田町史」にはこの富士見茶屋跡について「富士見茶屋珍珍亭:下高田の山の手なる富士見?に富士見茶屋珍珍亭と云ふのがあった。晴天の時は富士山が能く見へ、眼下には農田を眺望_十里の風光、眸に収まり、其の景趣筆舌に壗し難きものあり、文化七年九月廿七日、上町肴屋岩次郎の寄進にて、富士見塚の碑を建て、芭蕉の句を刻した。」とあり、「高田町史」にこの茶屋を「富士見茶屋珍珍亭」としています。また、「十方庵遊歴雑記」という旅の紀行文のような歴史書にも同じようなことが書かれており、芭蕉の句碑には「目にかヽる時や殊更五月富士」と刻まれているとのことです。この芭蕉の句碑が富士見茶屋跡の碑でもあったのです。また一説によりますと富士見茶屋ができる以前から富士見茶屋跡の碑のある横の坂道を”富士見坂”と呼んでいたという説もあり、この地に立つと遠く富士山が見えていたようで、”歌川広重の富岳三十六景”にも描かれています(右上)。しかし今はご覧のとおり樹木に覆われているのとその正面には建物があり外の景色は全く見えません。
 (富士見茶屋跡の説明(赤字)は「高田町史」に書かれているまま、また一部現代漢字にない字があり当て字または○やスペース、当て字で表現してあります。)
 
             
   道しるべ(3ヵ所) 
   迅速測図に道しるべの位置を落とし込んでみました  道しるべ1  道しるべ2
   道しるべ3  豊島区役所発行の「歩く・聞く・写す」に載っている道しるべ3ヵ所を尋ね歩きました。この資料によりますと”道しるべの位置は少し変えられている。”とのことですが「迅速測図」に書かれている道と比較して”ここでは”と思われる場所に落とし込んでみたものが上段左の図です。道しるべ1(迅速測図に落とし込んだ順)は校内野球場がある道の正門方向からの道とがT字路になっているところに雑草に隠れるように建っていましたが、隣に説明板がありましたので発見するじょとが出来ました。”道しるべ1”は簡単に見つけることが出来たのですが、2、3は道しるべの石柱があるだけで説明もなくたやすく見落としてしまうようにひっそりとありました。道しるべに彫られた内容は「歩く・聞く・写す」に載っていますので参照してください。石柱には漢字、カタカナ、ひらがなが入り混じって彫られていて、また、経年劣化ですり減っていて、私には読めるような読めないような状態でした。「迅速測図」から判る道しるべの位置は学習院大学目白校のある台地一帯が農耕地(田、畑、竹と書かれている。)内を道に迷わないように必要な角に建てていたように見えます。このような道しいるべはほかにも建っていたと思われますが、後の開発で無くなってしまったのではと推察します。時代の大切な史跡のひとつですので後々までこのままの状態で残されることを願います。




             
   学習院大学構内に残る史跡の数々いかがでしたか。普通の生活をしている我々にとってはまず立ち入らない場所ですが東京都区内にはまだまだいろいろな史跡がたくさん残っているのですね。これからもこだわって追跡したいと思います。また学習院大学に限らず、構内を見学させていただく場合は必ず訪問の趣旨を警備員さんなりに伝へ(所定の手続きが必要なところもあります。)許可を得てから見学するのを心がけてください。