この項では目白駅西口にある2つの坂から目白通りを不忍通り方向に文京区との境にある日無坂までのいくつかの坂と雑司が谷霊園南にある2つの坂と護国寺横にある池袋方向に上がる小篠坂までをちょっと広範囲になりますが歩いてみました。この地域は護国寺以西は文京区にあたる目白通りを挟んでの地域に大名屋敷や与力・同心といった人たちの武家屋敷(といっても大名屋敷に比べようもないくらい一軒一軒が狭い敷地)がびっしりと街道沿いに建ち並んでいるほかは、雑司が谷村や高田村とほとんどが農村地帯であり道も多くはありません。 
             
   銀鈴の坂、豊坂、学習院椿の坂、のぞき坂、宿坂、稲荷坂、富士見坂、日無坂、御嶽坂(御岳坂)、南坂、小篠坂 
             
   銀鈴の坂  標高(坂上30)m (坂下)25m (差)5m
   銀鈴の坂上  銀鈴の坂の階段  銀鈴の坂下
   この坂の標は見つかりませんでした。この坂は「今昔 東京の坂」にも豊島区発行の「豊島の坂」にも載っていませんでしたが、坂学会のホームページをみますと載っていましたので行ってみました。坂はJR目白駅すぐ駅北側を通る目白通りに坂上がにあります。坂下を少し歩くと豊坂がありその先は新宿区に入ります。地形図を見ますとこの辺は学習院の南側の低地が深く切れ込んでいる谷頭のような場所となっていて谷頭の入口付近に豊坂の対面としてこの階段坂がありますが、坂中でくの字に折れ曲がっている大変傾斜のきつい短い階段坂です。また、非常に新しい坂のようです。「復元 江戸情報地図」を見ますとこの辺は高田村にあたり目白駅周辺には現目白通りと思われる道があるだけで他の道は全くなく耕作地であったようです。
             
   豊坂(とさかと読む)  標高(坂上)31m (坂下)25m (差)6m
       
  この坂の標は見つかりませんでした。この坂は「今昔 東京の坂」にも豊島区発行の「豊島の坂」にも載っていませんが、やはり坂学会のホーム・ページに載っていましたので探しに行きました。坂はJR目白駅から銀鈴の坂を下りてそのまま少しJR沿いに歩きますと道がUの字になったところにでますが、そのUの字の真ん中に車も通れないくらいの細い坂道がありますが、そこが豊坂の坂下になります。坂道は古そうですが標もなく坂道を上がって行きますと坂途中に豊坂稲荷神社という神社がありこれがこの坂の坂名の由来ではないかと思います。豊坂稲荷とあり坂があっての稲荷なのか稲荷が先で坂名が付けられたのかは謎です。 
                       
  豊坂稲荷神社と市来嶋稲荷  
   豊坂の名前の元になったと思われる”豊坂稲荷神社”が坂上にあります(あるいは豊坂が先にありいなりは後から出来た?下に書いた豊島区のホームページを見ますと後者のようです。)。その豊坂稲荷と肩を並べてすぐ下に”市来嶋稲荷”という小さな小さな祠のような稲荷がありましたので紹介します。2つの稲荷とも由来や説明板がなくその成り立ちは判りませんが坂道に沿ってある稲荷の大谷石と思われる石がとても古く感じられましたので調べてみました。豊島区のホームページでは「元々は学習院構内にありましたが、移転に伴い現在地に遷座。豊坂に面していることから豊坂稲荷とも言われています。また江戸時代、八兵衛という人が仕守りしていたことから、八兵衛稲荷という別名もあります。地元では商売繁盛・合格祈願・家内安全・祈願成就の御社として有名。目白駅を出て左手の階段を下りたところにあります。」とありますが詳しくは判りません。また境内社と思われますが囲いもない隣にある”市来嶋神社に関しては”習い事の神様”と書かれた板標がありますがそれ以上は不明です。また、古い木の屋根のある穴の開いた不思議な石があります。わざわざ屋根を付けているのでなにか由緒があるのではと思いますが全くの謎です。この豊坂稲荷神社は高田氷川稲荷が御朱印の授与所となっているようで、普段は無人のようです。
   奥:豊坂稲荷神社 手前:市来嶋神社  豊坂稲荷神社  市来嶋神社(木の前)と不思議な石(右下)
             
   学習院椿の坂  標高(坂上30)m (坂下)16m (差)15m
   学習院椿の坂上  学習院椿の坂中  学習院椿の坂中
   学習院椿の坂中にある学習院西門  学習院椿の坂下  
  この坂の標は見つかりませんでした。この坂は目白通りに面している学習院の西側をJRとの間をゆっくりと長く長く下っています。「今昔 東京の坂」にも豊島区の「豊島の坂」にも載っておらず、他の方のホームページを参考にさせていただき行ってみました。坂は目白通りに面した学習院の敷地の西北角が坂上となっています。坂上から左側は坂下近くまで学習院の塀が続く長い坂道です。古地図を見ますと学習院のある辺りは高田村と呼ばれた耕作地であったようで道も全くと言っていいほどありません。目白キャンパスの紹介では”明治39(1906)年7月工事開始で明治41(1908)年8月に現在地に移転した。”とありますので、この坂道もこのころに出来たのではないかと推察します。
             
   のぞき坂(別名:胸突坂)  標高(坂上)30m (坂下14m (差)16m
   目白通りにあるのぞき坂上への道  のぞき坂上  のぞき坂下
  この坂の標は見つかりませんでした。坂は目白通りをJR目白駅から不忍通り方向に少し歩いたところに何の変哲もない狭い道があります(写真左)。その道を歩いていきますと急激に視野が広くなってきます。その辺がこの坂道の始まりのようで滑り止めのディンプルを施したコンクリート道となっています。今はご覧のとおり低層ながらマンションが建ち並び景観を壊していますが、江戸時代に坂の上に(と言ってもこの坂道はあったのでしょうか?)大変眺めの良い場所であったのではと想像がつくほど傾斜を持った比較的に長い坂道です。「今昔 東京の坂」には「むかしはいちめんの広い田圃であった。恐るべき急坂である。・・・ また、坂下に立って見上げると、坂の両側から蔽いかぶさった木立の間に青空がある。・・・」とありますが今はご覧のように道の両側はマンションです。いつごろからの坂道なのか豊島区発行の「豊島の坂」には「明治四十四年の北豊島郡高田村の地図にを見ると、この坂の辺にはレッキとした道は記されていない。」とあり比較的に新しい坂道のようです。坂上からは坂下が、坂下からは坂上が見えないほどの急坂で、坂上から自転車で降りてくるには快適であると思われますが、上がって行くとなると自転車を押し押し上がらねばならず大変難儀な坂道です。坂下はかつて川が流れていたのではと思われるような曲がりくねった道があります。「川歩き」で調べてみたいと思います。「豊島の坂」には別名として”急坂”とも書かれています。 
             
   宿坂(別名:くらやみ坂、砂利場坂、清玄坂、浅間坂)  標高(坂上)30m (坂下)13m (差)17m
   宿坂上  宿坂下  宿坂下にある金乗院
   金乗院の山門  山門横にある目白不動の石柱  境内にある目白不動
   この坂の標は坂下にある金乗院山門にあるお寺の説明と同じ場所にあります。説明には「宿坂道 中世のころ、「宿坂の関」と呼ばれる場所がこのあたりにありました。・・・宿坂の関は関東お留の関で、鎌倉街道の道筋にあったといわれています。鎌倉街道は、高田馬場から雑司が谷鬼子母神方面へ抜ける街道で、現在の宿坂道よりやや東寄りに位置していたようです。江戸時代には、竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話が今に伝わっています。」と中略しましたが書かれています。またその説明の横には当時の宿坂の関が旧址 金乗院観音堂とともに描かれた”江戸名所図会”もあり、そこにはこの坂道に”宿坂”と書かれています。坂はJR目白駅から目白通りを不忍通りに向かって歩き、”雑司が谷道”と説明された(豊島区文化財マップ)道の駅方向からみて右側の道にあります。坂下には”金乗院 観音堂”がありかなり古くからあった道のようで名所図会ではもっと広い感じがしますが、今はご覧御通り滑り止めのある現代的なしかし車がやっと一台と折れるような細い道にあります。余談ですがこの金乗院観音堂には目白不動もあり「今昔 東京の坂」によりますと、「真言宗金乗院は、五百年以上の歴史を持つ古刹。文京区目白坂にあった目白不動(江戸五色不動のひとつ)は戦後ここに移された。」とあり、なるほど山門には”目白不動”と刻まれた大きな石柱があります。
             
   稲荷坂(別名:浅間坂、あべ坂「豊島の坂」に載っていますが不詳)   標高(坂上)30m (坂下)13m (差)17m
   稲荷坂上(もう少し手前に高田稲荷がある)  稲荷坂下  坂上にある高田稲荷大明神
  この坂の標は見つかりませんでした。坂は目白通りをJR目白駅から不忍通り方向に少し歩いた十字路にあり奥、「豊島区文化財マップ」では雑司が谷道となった道南側にあります。道はご覧のとおり狭く車も通れないような小路で傾斜もかなりある一本道です。坂上にはこの坂道の坂名となったと思われる小さな”高田稲荷大明神”が木塀に隠されたようにあります。この坂道を歩く人たちにはここにお稲荷様があるのが気が付かないような小さなしかも木塀で隠されたお稲荷様ですが、坂道と共にかなり古くからある坂道のようで「江戸切絵図集成」にもこの”雑司が谷道”とともに坂道が描かれています。ですが今は地元の方々しか通らないような生活道となっているようです。 
             
   富士見坂  標高(坂上)28m (坂下)12m (差)16m
   左日無坂上、右:富士見坂上  富士見坂上  富士見坂下
   坂上付近の民家の塀に埋め込まれた”富士見坂”の碑 この坂の標は坂上付近の民家のコンクリート塀に「富士見坂」と書かれた金属製の碑があるのみで標は見つかりませんでした。坂は宿坂と同じく目白通りを文京区方向に行った不忍通りのある交差点の反対側にほっそりとした小路がありそこが富士見坂と日無坂の坂上になります。坂上から日無坂のある小路が丁度文京区と豊島区の区境になります。「豊島の坂」には「この坂の上から見ると、真ん中に粋な塀のお宅があって、その左右に分かれて二本の坂が南方に下っている。・・・明治四十四年の地図には右側の立派な坂道は記されていない。・・・」と書かれています。最初にここを訪れた時には”富士見坂”を”日無坂”と思い込んでしまい何度も何度も両方の坂道を上がり下がりしてしまいましたが「豊島の坂」にも同じようなことが書かれています。坂は”日無坂”上と同じ道から入り坂上すぐに二股に別れていてその右側の大きな(と言ってもあまり広くない。)傾斜の急な滑りとめのディンプルのある坂道です。坂の由来は判りませんが、坂上に建ってみますとその昔にはきっと富士山が見えたのだろうと思われるような景観のある坂あ道です。








             
   日無坂(別名:東坂、富士見坂)  標高(坂上)28m (坂下)10m (差)18m
       この坂の標は見つかりませんでした。坂は坂上を富士見坂と同じくし坂上途中から大変興味のある家を挟んで東側にあり南に下っている大変急傾斜の細い細い坂道です。が、江戸時代からある道のようで稲荷坂と共に神田川のある低地から北へと上がる主要な坂道であったようです。しかしながら今は見る影もないくらいに近所の方々しか通らないような小道となっています。また住所表記を見ますと、日無坂を挟んで坂上から見て右側は豊島区高田一丁目、左側は文京区目白台一丁目となっています。










             
   御嶽坂(別名:三丈坂、御岳坂「豊島の坂にはこう書かれている」  標高(坂上)30m (坂下)25m (差)5m
   御嶽坂上  御嶽坂中  御嶽坂下
   清立院の請雨松  清立院向かいの寶城寺入口  御嶽坂下右側にある白鳥稲荷大明神
   この坂の標は見つかりませんでした。坂は東京メトロ副都心線の雑司が谷駅または都電の鬼子母神駅から都営雑司が谷霊園のある台地下を清立院毘沙門天と言う大きなお寺の敷地のある台地横を回り込むように雑司が谷二丁目方向に途中S字に蛇行しながら下って行く少し傾斜のある坂道です。「豊島の坂」によりますと「以前は墓地裏の暗い坂道だったが、今は明るい遊歩道と言った感じだ。」と書かれていて文字通りきれいに整備された坂道でした。ですがこの坂道は江戸時代からあったようで「復元 江戸情報図」には雑司が谷霊園を取り巻くような道が書かれていてその中にこの坂道も含まれています。「今昔 東京の坂」に書かれています。”請雨松(あまごいまつ)”の後裔と思われる松が清立院の墓地入口近くに板標(雨乞の松と書かれています。)と共にありますが、松は小さなものでした。また、御嶽坂下の清立院向かい側に”白鳥稲荷大明神”と言う古びたお稲荷様があります。が、このお稲荷様に関して書かれた書物は見つかりません。また御嶽坂のある道kら一本南側には弦巻川の流れていた曲がりくなった道があります。
             
   南坂  標高(坂上)30m (坂下)25m (差)5m
   南坂上  南坂中  南坂下
  この坂の標は見つかりませんでした。「今昔 東京の坂」にも「豊島の坂」にも載っていませんでしたが、坂学会のホームページに載っていましたので探しに行きました。坂は大鳥神社から都電鬼子母神駅を挟んだ旧弦巻川の流れていた上にある曲がりくねった道の中ほど”赤丸ベイカリー”と言うパン屋さんの横から北東に上がって行く細い道にあります。傾斜が少しある坂上からはゆっくりと左に曲がりながら弦巻川の流れていた道に出ます。この坂道を探すには”赤丸ベイカリー”と言うパン屋さんを目印にしていくと容易に見つけだすことが出来ます。赤丸ベイカリーの御主人にお聞きしましたところ、川が流れていたころにはこの南坂下に小さな橋があった。と話されていました。今は見る面影もありません。 
                           
   南坂の中辺りに崖線となって横道があり興味のある景観でしたので載せてみました。
   南坂中の横道  横道は崖線に沿ってある  横道の途中に下に降りる古びた石段がある(石段上)
   その石段の下には昭和の匂いがする家並みがある 南坂を歩いているときにその中ほどに大変興味のある崖線に沿った道がありました。崖はかなり差があり石灰石のような昔ながらの石で防壁されていますがその石垣の古さに興味を惹かれました。少し行きますと写真右のようなこれも振る見た石灰石造られたような石段がありその下には昭和の匂いのする時代に取り残されたような民家がありました。南坂は古くからあったようですが、なんでこんなところに石段があるのかと不思議に思いましたがご近所の方にはまったく出会えずお聞きすることが出来ませんでした。昭和時代の匂いかプンプンするなんとなく懐かしさのある風景の地域でした。










 
                          
             
   小篠坂(こざささかと読む。別名:小笹坂、乞食坂)  標高(坂上)30m (坂下)16m (差)14m
   小篠坂上  小篠坂中  小篠坂下
  この坂の標識は銅版で造ったような立派な標識が坂下文京区との区境近くにあります。また文京区側と思われる坂下には地域の歴史案内もあります。坂の標には『この坂を小篠坂といい小笹坂とも書く。江戸時代後期の「若葉抄」によれば小笹坂とあり、十七世紀はじめの御鷹部屋が現在の雑司が谷霊園内にできてから、本淨寺の東に谷道を新道として開いたといわれる。この坂の東側は江戸時代初期、大塚御薬園であったが、天和元年(一八六一年)に護国寺となった。「江戸名所図会」には小篠坂と記されている。』と書かれています。「今昔 東京の坂では文京区側として、また「豊島の坂」にも載っています。坂は首都高速五号線が上を通る上下線が分離された広い広い道にありますが、「豊島の坂」ではその護国寺側の歩道辺りが小篠坂としています。坂は護国寺のある不忍通りを坂下としてゆっくりと大きく右に曲がりながら池袋方面に上がって行きます。坂右側は護国寺の石壁が続いていて坂道と壁のわずかな隙間には建材屋さんの敷地なのでしょうか建材の材料がたくさん置かれていて景観を台無しにしてしまっています(こんな狭いところが個人の所有地なのでしょうか?)。 
                     
   学習院大学目白キャンパス内史跡
   学習院大学目白キャンパス内に残る数々の史跡を訪ねてみましたのでお楽しみください。
                     
             
   祥雲寺坂  標高(坂上)32m (坂下)29m (差)3m
   
   祥雲寺坂上  祥雲寺坂の標識  祥雲寺坂下
   池袋駅から東京メトロ有楽町線で一駅の要駅すぐに祥雲寺というお寺がありその前の道が祥雲寺坂と坂学会のホームペイジにありましたので行ってみました。坂には標がありませんでしたが、坂上の交差点にあった道路標識に”祥雲寺坂”と坂名が書かれていましたので坂の場所としては目白通りにある他の坂道とはかけ離れていますが、どの区分いも入れようがありませんでしたのでここに載せました。坂は坂上近くにある”祥雲寺”と言うお寺がありその前を通る道にある坂なので”祥雲寺”と名付けられたのではと思われます。 
             
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