ここからは文京区の北部にあたる本郷五丁目から東京メトロ千代田線の千駄木駅までの北区の境目にある不忍通りに沿ってある坂道を追いかけます。それほど数は多くはありませんが、その分分散していて大きな地図に入れてしまうと坂の存在が小さくなりすぎて判りずらかったのでこの部分を独立して掲載することにしました。 
   
  大給坂、狸坂、きつね坂むじな坂、動作坂、稲荷坂、明神坂 
   
   文京区の北部を地形図で見てみますと上のような地形となっています。台東区、北区にある上野台地と文京区側の本郷台地との間には大きく深く内陸に食い込んだ低地が長くつづいています。その分坂道も多いのではと思いましたが坂道はたいへん少ないものでした。なぜかを『江戸切絵図集成』で見てみますとこの辺、本郷台地の東縁下はそのほとんどが”田”、”田地”と書かれた田んぼ畑で、低地には”藍染川”なのでしょうか川が流れたいた様子が描かれています。団子坂と動坂の間には本郷台地と上野台地を行き交うほんの数本の道しかありません。
また、「今昔 東京の坂」には”狸坂”は書かれていますが”きつね坂”、”むじな坂”は書かれていません。しかし”坂学会”という団体の資料や、”東京23区の坂道”等のホームペイジにはこの2つの坂道があります。それらの坂道のある場所もはっきりと記述されていましたので参考にさせていただき行ってみました。
             
   大給坂(おぎゅうさかと読む)
   大給坂上  大給坂下  この坂の標には『かつて、坂の上に子爵大給家の屋敷があったことから、大給坂と名づけられた。大給氏は、戦国時代に三河国(今の愛知県)賀茂郡大給を本拠とした豪族で、後に徳川家康に仕え、明和元年(1764)、三河西尾に封印された一族である。現在残っている大銀杏は、大給屋敷の内にあったものである。この辺りの台地を、千駄木山といい、近くに住んだ夏目漱石は次のようによんでいる。 ”初冬や竹きる山のなたの音”』と書かれています。坂は狭い狭い相当な角度を持った急坂です。坂下は不忍通りに面していていますが車も通れないほどに狭い急傾斜の坂道で完全に路地道のような坂道でした。




 



             
  狸坂 
   狸坂上  狸坂下  この坂の標には『このあたりは、旧千駄木林町で、昔は千駄木山といって雑木林が多く坂上の一帯は、俗に「狸山」といわれていた。その狸山に上がる坂なので、狸坂と名づけられた。狸山の坂下は根津の谷で、昔は谷戸川(藍染川・現在暗渠)がながれて田んぼが開け、どこからともなく「里はやし」が毎夜聞こえてきた。土地の人たちは、これを千駄木の山の”天狗ばやし”とか”馬鹿ばやし”といって、狸山にすむ狸のしわざと言い伝えてきた。民話にちなむおもしろい坂名である。』と書かれています。坂は少しの勾配を持って不忍通りに下っている極々普通の一般的な坂道です。坂上一帯は雑木林であったとされていますが、今は完全なる住宅街で低層のマンションが立ち並んでいて昔の尾の影は全く残っていませんでした。





             
   きつね坂
    きつね坂上  きつね坂中  きつね坂下
  この坂の標は見つかれませんでした。この坂道に関しましては、「今昔 東京の坂」にも、「文京 観光ガイドマップ」にも載っていませんが、文京区の坂道をインターネットで調べていましたところ、いくつかのホームペイジで狸坂のほかに、”きつね坂”と”むじな坂”があるとありましたので、それらを参考にさせていただき場所を特定して行ってみました。この坂道は、”大給坂”、”狸坂”と同じく千駄木山から本郷台地の縁を 不忍通りへ下っている坂のひとつです。ので坂名も”きつね坂”と青い色で表示しました。文京区の115の坂からは外れてしまっている坂道です。坂は坂上から少しの傾斜を持って左にカーブしながら下って、途中で直角に右に曲がり不忍通り下っています。いつの頃にでき、いつのころからそう呼ばれていたのかも不明です。いつか文京区々役所で確認をしたいと思います
             
   むじな坂
   むじな坂上  むじな坂下  この坂の標は見つかれませんでした。上の”きつね坂”同様「文京 観光ガイドマップ」にも「今昔 東京の坂」にも載っていません。坂はゆっくりと蛇行ながらあまり傾斜もなくきつね坂と同様に千駄木山から不忍通りへ下っています。この坂もいつの頃にでき、いつのころからそう呼ばれているのか、この近辺に住んでおられる方々がそう呼んでいる坂道なのかは不明で、これも文京区々役所で確認したいと思います。











             
  動坂(別名:不動坂) 
   動坂上  動坂下  動坂上にある動坂公園と動坂遺跡の碑
   この坂の標には『この坂のお由来については下記のとおりである。「千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて草堂のありし旧地なり」(江戸名所絵図)大和年間(1615−1624)万行上人が伊勢の国赤目山で不動明王像を授けられ 衆生済度のため諸国を回り 駒込村のこの地に庵を設けた。その後三代将軍徳川家光により現在の本駒込一丁目に移された。 (現南谷寺)この本尊は江戸時代から五色不動(赤、白、黒、青、黄)として有名である。その跡に日限地蔵堂がたてられ信仰をうけていたが、現在、地蔵は徳源院に移されている。明治26年お堂の修理中地下より土器・石器が発見され 昭和49年には駒込病院敷地からも多数出土している。「動坂は田畑へ通ずる往来にあり、坂の側に石の不動像在り、是れ赤目不動の田地なり、よりて不動坂と称すべきを上略せりなりと言う。」(御府内備考)』と詳しく書かれています。坂は坂上の本郷通りから不忍通りに下る主要道路となっていて道幅も広くたいへん整備されている坂道です。また坂上には縄文中期の遺跡が「動坂遺跡」として小さな公園に碑が建てられています。「今昔 東京の坂」によりますと、この縄文遺跡は動坂公園の地下にそのまま残されているそうです。この遺跡付近はちょうど高台にあり、縄文時代には海がこの辺まで深く入り込んでいて、川の幸、海の幸が得られていたのではと想像します。
             
  稲荷坂 
   稲荷坂上  稲荷坂中  稲荷坂下
   この坂の標には『稲荷信仰は農業神であるウガノミタマノカミに対する信仰で「稲なり」の転訛といわれる。狐は古来、田の神の使いと考えられていたので狐尊信の風が稲なり信仰と結合して、特に江戸時代になると盛んになった。これが、農民のみにとどまら都市にも普及して商業繁栄を招来する神、そして家屋敷の守り神(地守神)となって武家屋敷内をも含めて小規模な稲荷神社を祀る風習を生むようになる。これを「屋敷稲荷」といった。こうした風習から来る生活感情と付近の稲荷神社とのかかわりの中で拱らばれた坂名として特色があるが、ここの場合は坂上にある江戸初期から続く駒込村開拓名主・高木家の「宗十郎稲荷」に起因する。』と書かれています。坂は坂上からゆっくりと左に曲がり坂途中から右に曲がっていて、傾斜自体も極なだらかに下っています。坂上に稲荷神社があったと書かれていますが、今はご覧の通り左右には低層マンションが立ち並んでいる生活通りです。
             
  明神坂 
   明神坂上  坂途中にある明神坂の銅標  明神坂下
  この坂の標は写真上中のうような銅製と思われる金属の標識しか見つかりませんでした。その銅板(錆のでかたから銅板と思われます。)の坂の説明が彫り込まれているのですが、長い年月が経ってしまっているため銅板自体がくすみ、緑黴が発生していて文字の判読が困難でした。文京区にある他の坂にも同じような銅板による標がありますが、いずれも近くに白地に黒文字で書かれた標がありましたので坂の説明を判読するのには苦労はなかったのですが、この”明神坂”には銅板の標しか見つけることができませんでしたが、次のように読めました。『このあたりは、旧町名を駒込明神町といった。駒込の総鎮守の天祖神社(旧称明神社)にあやかったものである。現在この坂道は、通称不忍通りにあるが、道路の開設は新しく、大正十一年である。町内の坂ということで明神坂と名づけられた。大正の坂、東京の坂である。』と読むことができました。坂は極々なだらかにうねっているように見えます。解説の通り不忍通りにあり坂上は六義園角となり本郷通りと交わっている、道幅も広くきれいに整備されています。 
 
                 
   このあたりの坂道を『江戸切絵図集成』で見てみましょう。上の絵図は国会図書館にてコピーしたきた『江戸切絵図集成』「根岸谷中邊繪圖」の内団子坂から動坂に至るあたりのものです。この切絵図からは見えてくる景色は、団子坂と動坂の間は坂上は武家屋敷とお寺が密集しており、坂下は千川上水と思われる上水路が通っている田地となっていて、その間には坂上から低地に下りていく道が数本描かれていますが坂道の名も坂道の印"|||"もありません。この辺はもう江戸の外れだったのでしょうか?今とは全く異なった様子です。現代の地図に落とし込むのも難しいほど当時と現代とでは違ってしまっています。少なくとも”大給坂”、”狸坂”、”きつね坂”、"むじな坂"と名のついた坂がありますが、絵図からはそれらしき4本の道筋が坂上から低地に向かって描かれています。この道がそれらの坂道なのでしょうか?絵図には団子坂と動坂の間にそれら以外の道は描かれていません。
             
      文京区東部の坂終り    
             
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