皇居と周辺 (東御苑内と紀伊国坂)
   
   上の地形図は、”Google Earth”で取り込んだ2種類の地形図を重ね合わせています。地形図の上にマウスを乗せると陰影図となり、マウスを地形図から外すと元の地形図に戻ります。これにより、私のしようとしている坂の位置が傾斜のどこに、どのように位置しているかが容易に表現することができました。ご覧の方々も、マウスをのせたり、外したりして、坂と、傾斜の関係をご覧になってください。なぜそこに坂があるかが容易に理解できると思います。以後もこの方法で地形図の重ねをして地形を表現していきたいと思います。”Google Earth”の地形図とその陰影機能がなければ、私の表現しようとしていることが、容易ではなかったことがお分かりと思います。
 うまく切り替わらない方は、”ActiveXコントロール”を実行しないように設定していると思われますので、”ActiveXコントロル”をEnableのしてください。(画面下にメッセージが出る方もおられると思います。メッセージが出た方は、”許可”をクリックしてください。)
                       
   上の重ね地形図をご覧になってお判りのとおり、皇居は非常に起伏にとんだ地形になっています。(見にくいと思いますが、黄色の細い線が等高線です。)地形図の左部分(一般には解放されていない部分)には、紅葉山(もみじやま)と呼ばれている、太田道灌時代からの山があります。(等高線が入り組んでいて、ここが皇居の中でも一番高いところではないかと思います。)御用地の範囲なので、残念ながら、ここへは立ち入りできませんが、小高くなっているのがよくお判りと思います。
  いろいろな書物にもありますが、江戸以前のこの辺の地形は、もっともっと複雑に入り組んでいて、二重橋前あたりまで海が押し寄せていました。日比谷あたりは、海の浅瀬であったようです。後ろは自然を生かしたお濠があり、江戸城は要害的にも非常に優れたものであったと思います。
 その皇居の東御苑には、2つの有名な坂があります。(東御苑は一般にも開放されており、誰でもこの坂を上り下りすることができます。)汐見坂と梅林坂です。両方の坂ともかなりの勾配があり、ここを上り下りしたお侍方は難渋したのではないでしょうか。また、汐見坂は中間あたりで右折していて、そこから東京駅方面を眺めますと、当時は海が見えていたことと察することができるくらいに広々とした、よい眺めの良い坂です。
 
(上図は、のGoogle earth の地形図に坂道と坂道名を記入してみました。)
             
    汐見坂(別名:潮見坂、塩見坂)  高低差(坂上)18m (坂下)8m 差10m
   横から見ると汐見坂の傾斜がよくわかる  汐見坂の中間       
      坂の途中からの東京方向の景観
    紫の一本(ひともと)』と言う本には、「此の所より海よく見え、汐のさしくる時は、波ただ爰元(ここもと)へ寄るやうなる故塩見坂といふ、今は家居にかくされてみえず。」とあります。現在の汐見坂からの眺めも、ご覧のとおり、ビル群に阻まれて、まったくの景観となってしまっていますが、それでも当時の眺めの良い場所であったことが偲ばれます。左上の写真でよくわかると思いますが、坂はかなりの急坂であり、右上の写真で見えるように、坂途中で90°に曲がってています。その先はゆっくりと曲がった道となっています。 
             
   梅林坂  高低差(坂上)18m (坂下)8m 差10m
   梅林坂上  梅林坂中と門柱跡  梅林坂下
   『紫の一本』には、「梅林坂(うめばやしさか)、御城の内にあり、此の所に昔、天神の社有、是は太田道灌武州入間郡川越三吉野の天神を勧請せらる」とあります。
写真をご覧になってお判りのとおり、坂は緩やかに曲がりながら登り始めは緩やかに途中からかなりの傾斜を以て上っています。坂の途中には、当時存在していた門の基石が残っています。(
左の写真)規模からして、かなり大きな門であったと偲ばれます。
             
   紀伊国坂  高低差(坂上)14m (坂下)5m 差9m
   紀伊国坂上  紀伊国坂下   碑には、「この坂を紀伊国坂と言います。『紫の一本』という本には、紀伊国坂、松原小路より、竹橋御門へ出る坂くをも言う。今の灰小路の所、尾張紀伊の御屋敷ありし故なり。とあり、『再校江戸砂子』には、紀伊国坂、竹橋御門へ下る小坂を言う、むかし、此所に尾紀の両御殿ありしなり。今、赤坂に同名あり。とかかれています。」とあります。
坂はゆったりとしたなだらかな長い坂で、皇居のお濠と石垣のとの美しい景観を楽しみながら歩くことが出来ます。。







                      
             
   皇居と周辺 西部(霞が関、永田町)          
   
   地形図の解説: 
 上の写真の地形図は、いずれも ”Google Earth” から取り込んだ地形図です。”Goole Earth”から、鳥瞰的な図で抽出し、その図に坂道とその坂名を(
いずれも赤で示した線)、書き込んでみたものです(この地形図は、陰影図と重ね図となっています。)。この図から判ることは、あたりまえながら、坂道のあるところには高低差があることがよく表れていると思います。これら2種類の地形図を取り込み、それを重ね図にすることにより、今の街並みの様子と、地形的な面と両方から道や坂道がどうなっているかを見ることができます。当然のように、等高線が混んでいるところに、人が行き来すれば坂ができます。これらの地形図を比較していくと、大変面白いと思いますし、坂道研究のよい材料となるのではないでしょうか。余談ですが、坂道の等高線の状態を見てみますと、等高線の間隔が広く長い、なだらかでゆったりとした坂(例:三宅坂)や、間隔の狭い等高線がぎっしりとつまった。急傾斜の坂(遅刻坂)等が、これらの地形図だけでもよくわかると思います。(これらを表現できるのは、”Google Earth”と言う機能ができたおかげで、私の表現しようとしていたことが、思っていた通りにできています。) いままで坂道をこのような感覚で見たことも、思ったこともなかったので、非常に新鮮な感覚で坂道を見ることができ、舗装もされていない、雨が降るとグチャグチャに泥濘んこになってしまって、大変な難儀で坂を行き来していた当時に思いを馳せたりすると、田舎の泥道を思い出したりして、懐かしさが出てきます。以後の坂道も、このような方法で表現していきたいと考えています。
 (すべての坂道は、手書きで書き込んだので、長さが違ったり、曲がり具合が違ったりしていることと、実際の坂道が、どこからどこまでなのかがはっきりとわからない坂が多くありますので正確ではないことをここに明示しておきたいと思います。)
    ここでは、皇居の南西部分にある坂をまとめてみました。上の写真からもお判りのとおり、皇居の周りは東側を除いて傾斜だらけです。その分坂道も数多く残っているようです。江戸時代にあった道が、その後の開発で途切れ途切れになってしまっているのは淋しい限りですが、江戸時代の東京の西部、南西部のほとんどは、大名屋敷があり、それぞれが広大な敷地を持っていたので、その分道もそんなに多くはなかったのではないでしょうか。日が暮れた大名屋敷のまわりなんて、真っ暗闇で、怖くて歩けたものではなかったのではないでしょうか。(今は、その面影もありませんが。)
ここで江戸時代の道(江戸切絵図集成:尾張屋版)と重ね合わせてみようと試みましたが、この地域は開発が激しく、現在の道と江戸時代の道筋を重ね合わせるのが非常に困難であることが判りました。残念ながらうまく重ねることができませんでした。
                  
上の絵図は、『江戸切絵図集成:尾張屋版』(国会図書館にてコピーしたものを取り込みました。)の内「外桜田永田町」の切り絵です。絵図は、見にくいかもしれませんが、霞が関、永田町付近の道筋が、現在とはかなり違っていることがお分かりと思います。特に違っているのは、三年坂とその近辺(赤い〇内)で、その頃の三年坂は短く変な形で曲がっていたり、大きく湾曲して、潮見坂の坂上付近とつながっていました。
             
   霞が関坂  高低差(坂上)18m (坂下)9m 差9m
   霞が関坂上  霞が関坂下  坂の途中にある標柱には、「この坂を、霞が関坂と言います。中世のころ関所がおかれていたとされ、景勝地として古歌にもうたわれたものが多く、霞が関の名の起こりとなっているようです。江戸時代には広壮な諸大名の屋敷が建ちならんで錦絵にも描かれました。いまでは、霞が関と言うと中央官庁街の代名詞となっています。」とあります。坂は、広くなだらかで官庁街の趣のある地区にあります。「江戸名所図会」にも広い通りが描かれています。坂は真っ直ぐな広い道路となっていて坂の上からも下からも見通しがよくなっていますが「江戸切絵図」にある霞が関坂とはちょっと違っています。







             
   潮見坂  高低差(坂上)18m (坂下)8m 差10m
   潮見坂上  潮見坂下  坂にある標柱には、「この坂を潮見坂といいます。『新選東京名所会図』には、潮見坂は霞が関坂と三年坂の間の坂なり、と書かれています。中世のころまでは、日比谷公園の入り江であったといわれ、坂も当時はもっと高く、眼下に海をのぞむことができたためつけられた名でしょう。潮見坂、汐見坂の坂名は皇居東御苑をはじめほかにも多くあります。」とあります。今は、ご覧のとおりになだらかで、霞が関坂、三年坂とともに官庁街の交通の多い通りとなっています。









             
   三年坂(別名:淡路坂、鶯坂)  高低差(坂上)14m (坂下)7m 差7m
   三年坂上  三年坂下  木の標柱には、「この坂を三年坂といいます。『東京名所図会』には”三年坂は潮見坂の南に隣れり、裏霞が関と三年町の間の坂なり、坂をのぼれば是より栄螺尻とす””又淡路坂ともいい一に此所を陶山が関という”とありさらに”栄螺尻、裏霞が関と三年町の間、道路の盤曲する所をさざえしりと呼び虎ノ門より永田町に出る裏道なり、曲がり曲がりたる境の名なり、亦この辺鶯多し、因って鶯谷というよしみえたり”と書かれています。」と書かれています。坂は霞が関坂、潮見坂と平行に並んであり、現在は一直線のあまり長くないなだらかな坂道ですが、「江戸切絵図」では坂の途中で大きくクランク状に折れていて坂上も今とは異なっています。 






             
   茱萸坂(ざくろさかと読む 別名:番付坂、茱萸樹坂)  高低差(坂上)26m (坂下)20m 差6m
   茱萸坂上とその標  茱萸坂の終わりは二股に分かれています  木の標柱には、「この坂を茱萸坂といいます。またの名を番付坂ともいいました。『新編江戸志』には、丹羽氏の表門側から見通すことができ、内藤紀伊守、本多伊勢守の間をぬけて九鬼長門守の屋敷前に出る小坂で「両にぐみの木ありし故の名なり」とかかれています。また『新選江戸名所図会』には、「番付坂、茱萸坂の一名にて、昔時山王(日枝神社)の祭礼には必ず此所に花車の番付け札ありて其の行列を改めしよりという」とかかれています。」とありますが、坂は小坂ではなく、幅の広いゆったりとした幅広い坂道です。
このホームペイジを開設したころは、ちょうど原発反対の首相官邸前のデモがあったころで、この坂道が首相官邸裏にでることもあり、機動隊の車が何台も駐車していて良い写真が撮れませんでした。




             
    山王坂(鹿島坂)  高低差(坂上)28m (坂下)12m 差16m
    山王坂上 坂下は日枝神社に通じる道となります  山王坂下から国会議事堂側を望む  木の標柱には、「この坂を山王坂といいます。この坂あたり、明治維新まではほとんどが山王社(日枝神社)の社地であり、社前に下る坂なのでこの名がつけられてのでしょう。また、一名鹿島坂とも呼ばれていますが、明治時代の豪商鹿島清兵衛の邸宅があったのでそのように呼ばれたといいいます。」とあります。坂はかなりの勾配があり、少し長い坂となっています。また、標のとおり、坂を下って、反対側の坂を少し登ると山王日枝神社への参道に続く道と、日枝神社を迂回する山王切通坂との分岐となっています。







             
   山王切通坂  高低差(坂上)24m (坂下)14m 差10m
   山王切通坂上 右手に行くと山王切通坂 山王切通坂中坂は一旦登り、再び下っていす  山王切通坂下
   山王切通坂には、標柱が見つかりませんでした。坂は丘の上にある山王日枝神社をぐるりと取り巻くように廻っていて、山王坂下から外苑通りへと出ることが出来る長いかなりの勾配を持った坂となっていますが、抜け道のようで車の往来の激しい坂道です。 
国会議事堂に近いせいか、ここも常に制服の警察官が警戒をしている場所でもあります。
             
   新坂(別名:遅刻坂)  高低差(坂上)26m (坂下)8m 差18m
       木の標柱には、この坂を新坂といいます。新しくできたということでその名がつけられています。明治九年(1876)の地図には道が入っていませんが、同十七年(1877)参謀本部の図では現在に近い道路が見えています。おそらくその頃できた坂でしょう。また別名遅刻坂とも呼ばれいますが、官庁街に向かう役人、登校を急ぐ学生がカバンをかかえてかけ上がる風景から呼ばれたともいいます。」とあります。坂は議事堂のある高台から赤坂へ抜ける狭いかなり勾配のある坂道にあり、歩いての上り下りはかなりの難儀です。また、この坂は、三べ坂の途中からの道につながっていて外苑通りとの抜け道になっているのではないかと推察され人の行き来も頻繁です。坂の上にはメキシコ大使館があり車がよく通っていました。よくこんな坂道をと思うくらいの坂道で狭くて急坂で、なんでこんなところに坂があるのか?とも思いますが、すきな坂道の一つです。しかし、明治以降に作られた坂とのことで、ちょっと残念な気もします。

             
   三べ坂(別名:三平坂、三辺坂、三部坂、水坂)  高低差(坂上)28m (坂下)12m 差16m
   三ベ坂上  三べ坂中  三べ坂下
   三ベ坂の途中にある標柱には、「この坂を三ベ坂といいます。『新選東京名所会図』には、華族女学校前より南の方に下る坂を世俗三ベ坂といふ、昔時、岡部筑前守・安部摂津守渡辺丹後守の三邸ありし故に名づくといふ。とあります。また、坂の上の西側一帯は、松平出羽守の屋敷で、松平家が赤坂門の水番役をかねていたところから、門前の坂は、水坂とも呼ばれていました。」とありました。坂は地下鉄永田町駅と平行にあり坂上は246号線でその脇より下って行く道にあります。途中傾斜が緩やかになる二段坂になっていて一旦平坦になり、またカーブして下っている傾斜のある長い坂で途中の平坦な十字路を坂上から下って右折すると、メキシコ大使館がありその先は新坂(遅刻坂)となっています。また、坂途中に門がある華族女学校跡は参議院議長公邸となっている広大な敷地がありこの中に何人が生活しているのか?なんて考えがよぎります。この地域もも参議院議長公邸や、国会議事堂に近いせいか、常に制服警官が警備をしています。
 ここを3回尋ねてみましたが、ご覧のとおり、右側一帯が工事中でした。2年くらい続いています。どんな景観になっているか、この工事終了後に訪れてみたいと思います。
             
   梨木坂  高低差(坂上)24m (坂下)19m 差5m
   梨木坂上  梨木坂下 この坂の標は見つかりませんでした。坂は坂上に向かって右側には国会図書館があり、まわりも官庁関係の建物が多く、ご覧のとおりタクシーが四六時中坂に沿って駐車していて景観の悪い坂道です。なかなか良い絵が撮れませんでした。
江戸紀行聞には、『
井伊家の屋鋪のうら門をいふ。近き世までも梨の木ありにし、今は枯れて、その名のみ残れり』とあります。井伊家の屋敷の広さが覗われます。








             
   諏訪坂(別名:達磨坂)  高低差(坂上)30m (坂下)24m 差6m
   諏訪坂上  諏訪坂下  諏訪坂の標柱ひは、「この坂を諏訪坂といいいます。『新選東京名所図絵』には、「北白川宮御門前より、赤坂門の方へ下る坂を名く。もと諏訪氏の邸宅ありしを以ってなり。」と書かれています。また、別の名を達磨坂ともいわれていますが、旧宮邸が紀州藩であり、その表門の柱にダルマににた木目があったため、達磨門と呼ばれ、その門前を達磨門前、坂の名を達磨坂と人々は呼んだそうです。」とあります。
坂は、赤坂見附跡すぐ横にあり、赤坂門をくぐったならば、すぐに直角に左折するような位置となっていお濠に並行するようにあり傾斜もさほどない一本道にあります。







             
   富士見坂(水坂)  高低差(坂上)28m (坂下)14m 差14m
   富士見坂上  富士見坂中(赤坂御門跡)  この坂は、高速道路の真下に位置していて、なかなか坂の実感はわきませんが、かなりの長い急坂です。坂の頂上には、赤坂門跡があり、門の城壁や基石等が現存しています。赤坂門の地図や説明の碑がありますが、その坂が富士見坂であるという標柱がありません。 皇居方向からこの坂を登り、赤坂門手前で頂上となり、坂を下ると赤坂見附となります。246号線であり、東京の幹線道路になっていて、車の往来が非常に激しい坂となっています。江戸時代のころは、この坂の頂上に立つと、きっと富士山が見えたのでしょう。今はその面影もありません。






             
  赤坂見附門跡
   赤坂見附門跡の鳥瞰と、門の説明についていた門の図面   赤坂見附跡を見るたびに不思議に思っていたのですが、門がある位置は、坂の非常に中途半端な場所にあります。坂上でもなく、坂下でもなく。なぜ?と思うのですが、敵の進入を防ぐための何か工夫でしょうか?門のすぐ裏には門に接するように諏訪坂があり、門の左右は、お濠と坂になっていて、かなり要害な門であったと思われます。(左下の江戸末期に撮されyた写真を見てもらうとお分かりになると思うのですが、両側は坂になっていて、向かって左側は、弁慶濠となっています。右側は、溜池に通じていたのではないかと推察されます。)また、門の形式は、多くの文献にもあるように枡形門と言い、門をくぐって真っすぐには進めないようになっています。入口には小ぶりな高麗門があり、90°曲がって、大きな渡櫓門となっていて、この渡櫓門の上には兵を潜めとくことができる部屋があり、敵が攻めてきて、高麗門をくぐったところの広場でうろついているところを、渡櫓門上から矢や、鉄砲を撃ちかけることができるように工夫されています。江戸城にある門の多くは、この枡形をした門であり、桜田門がその代表ですが、この見附門も典型的な枡形をしていました。上左の図は、見附門跡と、弁慶濠、諏訪坂の位置関係を作図してみたものです。下の江戸時代末期の写真は、説明についていた写真で、当時の坂の様子がよく判ります。
 こうやって、ひとつの事柄について、いろいろと調べていくことも、坂を探す目的のひとつで、当時の坂の利用の様子がよく分かりと思います。坂自身もかなりの道幅を持っていたことが理解できると思います。また、ここからは大山街道に続く道があり、大山街道(いまの246号線)がここから始まっているのだとも判ります。
 『江戸切絵図』(尾張屋版)を見ると、やはり門手前両側は、お濠があり、坂上に赤坂御門とありました。門の右側は、松平出羽守のお屋敷で塞がり、坂を上がり、高麗門を潜るとすぐ右折で、渡櫓門があり、そこを通過してまた、左折しなければならず、やっとその裏に、左に諏訪坂がある道に出ることができます。赤坂御門左側は、紀伊井伊家と、その下に井伊掃部守の両家の広大な敷地がありました。今取り壊しで有名な、赤坂プリンス・ホテルの敷地が、井伊家の敷地跡です。『江戸切絵図』(近江屋版)には、諏訪坂の名はなく、”〇里俗ニ達磨門前ト云”とあります










       
          門跡の説明についていた写真
       
   清水谷坂(別名:シタン坂、シダニ坂)  高低差(坂上)24m (坂下)18m 差6m
   清水谷坂上  清水谷下  標には、『この坂を清水谷坂といいます。元禄四年(千六九一)の地図を見ると、麹町通りから直接下る坂のようにみえますが、それ以後の地図は現地形とほぼ合っているようです。別名シダニ坂ともシタン坂ともいわれるようですが、いずれも「清水谷」が変化されたものとされています。坂下を南北に走る道筋が清水谷で、そこで食違見附へと登る紀尾井坂とつながっています。』とあります。坂は、赤坂食違からゆっくりと曲がりながら麹町清水谷へくだる、少し急な長い坂です清水谷坂と紀尾井坂の交差点を曲がると、清水谷公園があり、このあたりで、幕末維新とその後に活躍した大久保利通が暗殺されています。公園には、その碑が建てられています。 






             
   紀尾井坂(別名:清水坂)  高低差(坂上)32m (坂下)18m 差14m
   紀尾井坂上  紀尾井坂下  赤坂食違見附から清水谷公園横の交差点まで下るやや急な坂で、標には、『この坂を紀尾井坂といいます。「新選東京名所図会」には、食違いより清水谷公園の方へ。下る坂を謂ふ。」また「紀尾井坂は、紀伊家、尾張家、井伊家の三邸此所に 立し、在 しを以って名つく」とかかれています。このあたりが紀尾井坂と呼ばれているのも左記の理由からです。また、坂下が清水谷なので清水谷坂の別の名もあったといいます。』とあります。標の中の”左記”に、どなたかが”右”と訂正(いたずら書き?)してありました。坂の横には有名なホテルがあり、坂自身もなんとなく気品があるように思えますが、やはりホテルの横ということもあり、路上駐車の車が散見されました。




 
             
   貝坂(別名:甲斐坂)  高低差(坂上)32m (坂下)30m 差2m
    貝坂上と標識  貝坂下   標には、『この坂を貝坂といいます。「江戸名所図会」には「この地は昔より甲州街道にして、その路の傍にありし一里塚を土人甲斐塚と呼びならわせしとなり。ある説に貝塚法印といへるが墓なりともいひて、さだかならず。」とかかれていますが、貝塚がああったというのが現在定説になっています。』と書かれています。坂は、大通りから一本外れた少し急な坂道です。










             
   中坂  高低差(坂上)28m (坂下)24m 差4m
   中坂上  中坂下  標には、『この坂を中坂といいます。元禄四年(千六九一)の地図にはまだ道ができていませんが、宝永(千七〇四)〜千七一一)以降の地図み見ると町屋ができ、現在の道路の形とほとんど違いがないことがわかります。中坂の名称の由来については、はっきりしませんが、中坂を挟んで北側に町屋、南側に武家が並んでいる形をみると中坂の名称におこりは案外この辺になるかもしれません。』とあります。坂は、幹線から外れた道にあり坂もなだらかで途中少し曲がっているの、なんとも言えず戸の坂道に見えます。







 
             
   三宅坂(別名:梍角坂、橿木坂)  高低差(坂上)28m (坂下)20m 差8m
   三宅坂上  三宅坂中から坂下を見る  三宅坂下
   この坂には坂名が書かれた柱が坂下、坂中と思われる付近にありますが坂の始まりがどの辺なのか坂下でも、坂上でもはっきりしません。お濠横の幹線道路にある広いだらだらとしカーブのある長い坂道です。途中と思われるとこに三宅坂の標柱がありましたが坂名だけで説明がありませんでした。『今昔 東京の坂』によりますと”桜田門外から道路はつま先上がりになる。いかにも下町から山の手に上がる坂で、坂下の堀には、河獺も棲んでいた。”とあります。今では想像もつかないほどなだらかな道幅の広い、ゆったりとしたカーブのある道となっています。
   これらの坂を『江戸切絵図』(江戸切絵図には、尾張屋版と近江屋版があります。その内容も少し違っていたり、道が異なっていたりしていますので併用して記述していきたいと思います。尾張屋版を基本としたいと思います。)を見ていきたいと思います。
 城内の坂はありません。霞が関坂は現在と同じ位置に同じように描かれています。潮見坂は、坂の位置、形状が大きく違い、坂下の位置に道幅が広い、潮見坂があり、中段、上段と3段階に道幅が違っています。その一番上の狭い部分には、”裏霞が関”と書いてあります。松平美濃守と松平伯耆守のお屋敷の間にあり、昔はここから江戸湊がみえたことでしょう。三年坂は、現在の道とは大きく違い、虎ノ門見附すぐから三年坂が始まり、枡形に曲がった道は、大きく左に湾曲していて、”サツ井ジリ”(栄螺尻)とあります。が、意味はよくわかりません。(昔の人たちは、何かの謂れや、そこでの出来事や、周りの景色、などで地名を付けていたようで、この名前も何か謂れがあると思います)。茱萸坂は、井伊掃部守の広大な屋敷の裏手に、それと思われる道がありますが、坂名はついていません。
      この項終わり
    いかがでしたでしょうか、皇居の西側だけでもこのように、昔ながらの坂がたくさんあります。坂にはそれぞれの歴史があります。昔の人たちがどんな思いで坂道を行き来していたのかを思い浮かべながら、坂道探しをするのはとても面白いことです。以後も足繁く坂道探しをしていこうと思います。
             
   皇居と周辺 その2(皇居北西側)へ
             
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