富士見坂、松見坂、旧松見坂、大阪、旧大坂、相ノ坂、蛇坂 
  ここからは目黒区の北部、といっても角に当たる最北部には名のある坂は見当たりません。辺り一面駒場野が広がっていたようで広大な狩場であったようです。ここでは北部中央を横断する”淡島通り”から南、青葉台二丁目辺りまでの坂道を捜し歩いてみました。
 
       
 富士見坂  標高 (坂上)34m、 (坂下)26m、 差8m
 富士見坂上  富士見坂下  この坂の標は見つかりませんでした。目黒区の「目黒の坂・みち」にも「今昔 東京の坂」にも載っていませんでしたが「坂学会」というホームページに載っていましたので探しに行ってみました。坂は渋谷区との区境を走る旧山手通りと246号線との交差点から少し北に上がったところから”淡路通り”と名付けられた道にあります。旧山手通りを坂上とし、坂下は山手通りとなります。また、坂下から反対側には”松見坂”が西へと上っています。渋谷区の道元坂から世田谷区の代沢方向に抜ける幹線通りのようで広い交通の激しい坂道となっています。昔は両側の建物もなく坂上からきっと富士山が見えたのでしょう。
目黒区には富士見坂がもうひとつあります。こちらの富士見坂は「今昔 東京の坂」にも載っている坂道で、”目黒駅周辺”の項で紹介しています。





           
 松見坂(別名:駒場坂)  標高 (坂上)32m、 (坂下)26m、 差6m
 松見坂上  松見坂下  富士見坂下から見た松見坂下
  この坂には坂下に左の写真のような坂の説明が掘られた石柱があります。初めて訪れた時には石柱の周りが説明が見えないくらい草で覆われていていましたが、何回か訪れた時には写真左のように石柱の前の雑草は取り除かれていました。石柱には『この坂から,「道玄物見の松」(土賊の道玄がその松に登って 往来の人を見下ろし,手下に命じて 衣服や携帯品を掠奪したために その名がついた) がよく見えたので,松見坂と呼ばれるようになったといわれる。また,坂の途中に「松見地蔵」があったので 坂の名になったという説もある。昔は,この坂の北西には,駒場野と呼ばれる 広大な原野があったが,今はその面影もない。』と書かれています。また、『新編武蔵風土記稿』には『駒場野の傍にあり故に名とせり此坂下に一株の松あり囲六尺許一本松と云小名の條に云へる道玄物見松伐取し後へ土人この松を道元松と呼へともこの地にいし故名なとせる口しなり。』とあります。「目黒の坂・みち」には、坂の謂れとしてjご近所に住んでいる方の昔語りが載っています。それによりますと、昔約四百五十年前くらいの話、道玄太郎という山賊が坂付近にあった松の大木に登って旅人に悪さをしていた。やら、昔(いつのころかは不明)追いはぎが出た。など物騒な話が載っています。昔の道は次に紹介します旧松見坂の方にあったようでその坂の途中には”松見地蔵”と言う地蔵様が祀られています。坂は富士見坂から続く淡路通りにありたいへんきれいに整備された坂道で渋谷区から世田谷区に抜ける幹線通りとなっていて少し傾斜のある坂道となっていますが、現在の坂は昔からの坂道ではなくこの松見坂下近くから横に下っていく曲がりくねった道があります(下の旧松見坂参照)。歴史的農業環境システムを見ましても松見坂は旧松見坂のある道が昔の道であったようで、現在の坂道はありません。また、江戸時明治初期には淡路通りはなく旧松見坂上からは大坂少し上で大山道に出られるような道筋となっていて現在とはたいへん違っています。  
目黒区発行の「目黒の坂・みち」に載っている地図には、淡路通りの道にある坂ではなく次に紹介する旧松見坂を示しています。
           
 旧松見坂   標高 (坂上)28m、 (坂下)22m、 差6m
 旧松見坂上  旧松見坂下  旧松見坂横の地蔵
 かつてあった空川の石橋柱(後の2本)  この坂道は現在の松見坂の坂下付近から横に下っていくような形で残っています。歴史的農業環境システムを見ますと、淡路通りはなく、現玉川通り(246号線)が大坂のある道を通り、大山道と呼ばれていたころには、現玉川通りも渋谷区方面から来てこの大坂で大きく湾曲して通っていてその曲がりはな少し上から旧松見坂に行く道がありました(現在もそれに近い道が残っています。)。松見坂でも紹介したのですが、目黒区発行の「目黒の坂・みち」に載っている松見坂の地図はこちらの坂道を示していますし、歴史的農業環境システム地図を見ましても明治以前の道がこちらなので、私としましてはこちらの坂道を旧松見坂として紹介してみました。
坂は現松見坂の坂下近くから脇道となってかなりの傾斜をもって下っていく短い坂道です。この坂道は渋谷区神泉町と道玄坂の間辺りを通っていた旧道から旧松見坂に向かって下っていく道と駒場野公園方向へ行く道とに分かれていて、その後旧松見坂の道は坂下で大坂上に出て大山道に出るような道筋と大きく湾曲して〆切地蔵のある方向へ進む道とに分かれています。文章/口頭ではなかなか説明が難しいのですが、歴史的農業環境システム図(上の地形図の3番目を参照)を見ますとそのことがよくお分かりいただけると思います。またこれらの資料を基にこの辺に残る旧道を捜し歩くのも面白いと思います。
余談ですが(川探しで詳しく紹介しています。)、かつて旧松見坂の中間あたり下を空川が流れていました。旧松見坂上には松見地蔵尊がありそこにはかつてあった遠江橋と呼ばれていた石の橋柱(”とほとふみはし”と刻まれています。)が残されています。




           
 大坂  標高 (坂上)34m、 (坂下)22m、 差12m
 大坂上と旧大坂上(右側の木標のある小道坂)  大坂下(246号線上にある)  
この坂の標は見つかりませんでした。「目黒の坂・みち」では「現在の青葉台から大橋にかかる玉川通りがそれにあたる。」とし、掲載されている地図では玉川通りを”大坂”、その横の青葉台から大きくカーブして大橋方向に下っている小道を”旧大坂”としています(「今昔 東京の坂」も同じ。)。坂上にある木標は旧大坂を”大坂”としているように建っているように思える位置にあります。が、目黒区の資料の通りにこちらの大通りを”大坂”として紹介します。坂は玉川通り(246号線)にあり、”大坂上”と言うバス停付近が坂上のようで、坂下は山手通りと交差するあたりではないかと思われますがはっきりとは判りません。比較的に新しい道で、。「今昔 東京の坂」によりますと、「この新道は明治四十年頃に拓かれた。」とあります。坂は玉川通りにあり渋谷区の道玄坂から続く玉川通りを旧山手通りを過ぎ少し世田谷区方向に進むと「大坂上」というバス停があります。その辺が大坂の始まりなのでしょうか?もう少し進むと、右手(北側)に細い旧坂があり、その分かれ道のところに「大坂」の木標が立っています。上を首都高速3号線が走る大変大きな道で、旧大山道(現玉川通り)で昔から交通の要所であり交通量の大変多い主要道路です。旧大坂の道(旧大山道)は坂途中からかなりの急こう配があり、大きく右にカーブしながら下り、大坂下あたりで交差し左側へと続き大坂下にあるガソリンスタンドを超えてすぐ左にある細い道を入っています。坂下近くに大橋氷川神社があり、みごとに急な石階段の下、石鳥居の横にひっそりと「大山道」の道標があります。そこには正面に「大山道 セたがや通り 玉川通り」と刻まれ、右側にはよく読めませんが、目黒区のホームページのある「目黒歴史めぐり」には「右 ひろう めぐろ 池がミ 品川 みち」と書かれているそうです。左側には同じく目黒区のホームページでは「左 青山 あざぶ みち」と掘れらているようですが、”あざぶ”は意識的か自然劣化かは判りませんが彫られている部分が欠けてしまっていて判読できません。ここを通行する人たちは旧大坂で大変な難儀をしていたようで、明治期に開拓されたようです。澁谷方向から世田谷に抜ける旧大山道を基に整備された通りの上を首都高速道路が走り、地下には東急田園都市線が走るデバイド(上下線が分離されている。)された大変に交通量の激しい大きな通りにあります。「明治40年頃には路面電車が走っていた。」と「目黒の坂・みち」にも書かれていますが、路面電車が開通したころはまだ急傾斜の坂道であったようで、「想像もつかぬほどゆるやかになっている。」とも書かれています。
     
 
     
 旧大坂  標高 (坂上)34m、 (坂下)20m、 差14m
 旧大坂上  旧大坂中  旧大坂下
 この坂の標は旧大坂上が大坂上から分かれる旧大坂側に建っています。木標には厚木街道(江戸から厚木まで)の間にあった四十八坂のうち、急坂で一番大きな坂であったので、大坂と呼ぶようになったといわれる。この坂標識の北側が旧坂で、南側が新道である。』と書かれています。この旧大坂は「目黒の坂・みち」では記述は上の大坂道を表していますが、記載している地図はこちらの坂道が「大坂」となっています。いづれにしましたも明治時代に開拓され路面電車が走るころには元々の「大坂」は隅に押しやられ一方通行の細い急傾斜のままの道が残されています。歴史的農業環境システム図を見ましても、大山道は”大坂上”バス停あたりから右側に入り大きく下りながら旧大坂となります。大坂を下りきったあたりから大きく左にか曲がって山手通りと玉川通りが交差するあたりに出てそのまま池尻大橋駅を過ぎたところにあるガソリンスタンドの左側の小道へと入っていきます。そのまま少し進みますと道右側に”池尻稲荷神社”がありその前に「旧大山道」と書かれた石碑があります。これが昔の「大山道」です。一方江戸城内方向への大山道は、大坂上から旧山手通りを過ぎたあたりで玉川通りとは別れ、宮益坂を経て246号線に入りそのまま赤坂見附を通り江戸城お濠に突き当たるまでが大山道のようです。また「目黒区大観」には、旧大坂を通る大山道はその昔「此坂が余り急であったので、相模の厚木から東京の魚市場へ鮎を担いで来るものが、こんな唄を歌っていた。・・・・相州厚木から夜通しで鮎を担ぎ、玉川で人数を殖やして荷を軽くし、夜明けまでに急速に日本橋の魚河岸まで運んだのであったが、其の途中の最難所が此の大坂であった為めに、・・・」とこの坂がいかに急坂であったかがうかがえるエピソードが書かれています。
 この旧大坂に関してはいろいろな資料で書かれていますが、どれも同じような事柄です。ちなみに目黒史の「郷土目黒」第二 に「目黒の大坂と鮎かつぎ唄」として旧大坂を通るときの難儀が詳しく書かれています。
           
 相ノ坂  標高 (坂上)36m、 (坂下)15m、 差21m
 相ノ坂上  相ノ坂中  相ノ坂中
 相ノ坂下と木標 この坂の木標には『この坂の上の旧大山道(現玉川通り)と坂下の日向道(ひなた)の間の坂だからとする説や、人々が落ち合う坂(合の坂、逢の坂)だからとする説がある。』と書かれています。坂は大坂を南方向に少し進んだ住宅街にあり、細い傾斜の急な曲がりながら日向道へと下る道にあります。坂下左には菅刈小学校があり、その小学校の脇へと出ます。少し位置は違いますが、「歴史的農業環境システム」にもこの道が描かれていて、大坂上から少し南東へ行く道から右へ急激に下る細い坂道があります。こさが今の”相ノ坂”であると思われます。大山道と日向道とを結ぶ坂道であったようですが、おもしろいのは大山道、大坂下からこの日向道が始まりこの相ノ坂下を通って菅刈公園西で二手に分かれひとつは目黒川に沿って上目黒一丁目方向へと続き、も一方は菅刈公園西で目黒川を渡り、東山の馬頭観音、宿山の庚申塔を経て半兵衛坂に至る道となって、2つの坂が坂上と坂下でつながりっていて丁度漢字の口の字のような形になっているのです。大山道から大坂を下り大橋氷川神社手前で日向道へと進むのは半兵衛坂方向に行くには遠回りとなるため、半兵衛坂方向へ行く近道だったのでしょうか?







 
           
 蛇坂  標高 (坂上)34m、 (坂下)15m、 差19m
 246号線側の坂下  坂上から見た246号線  蛇坂上
 蛇坂中の階段  蛇坂中の階段下  蛇坂下の曲がり
 
 蛇坂下  明治24年の地図(蛇坂はない)  明治44年の地図(蛇坂がある)
 この坂の標は見つかりませんでした。目黒区の資料にも「今昔 東京の坂」にも載っていませんでしたが、坂学会のホームページである「東京23区の坂」に載っていました。また「郷土目黒」の第二稿に「」とこの坂のことが載っていました。ので探しに行ってみました。坂は玉川通りの大坂から池尻大橋駅方向に少し歩いた玉川通り沿いにあり、写真左上のように玉川通りから少し上るような形で道があり、上り切ると写真右上のように両側をマンションで挟まれた格好の狭いしかしきれいなマンション街の道と言ったように整備されたごく最近造られたと思われる道があり玉川通りとは反対側に急坂となって下って行きます。坂は途中から階段坂となります。(写真中左)尚も下って行きますと階段坂の幅も階段のみと半分くらいとなり(写真中中)、そこから下はアスファルト路(写真中右)となって右折しています。そのまま進みますと写真左のような坂下となり日向道へと出ます。この坂道はいつのころに出来たのかを調べてみましたところ、目黒区のホームページに載っていた記事を参考に明治年代の地図を探してみたところ、上中と上右のような地図が見つかり比較して見ましたところ明治24年には蛇坂はなく、しかし明治44年には蛇坂が存在しています。坂道は整備されてきれいでしたが造られたのは意外と古く明治24年から明治44年の間ということが判ります。
           
           
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