目黒不動尊男坂、女坂、三折坂、石古坂 
  この辺りは羅漢寺川の流れていた低地を挟んで南側には都立林試の森公園というちょっとした高台にうっそうと樹木が生い茂った大きな公園があります。北側には目黒不動尊で有名な龍泉寺が北側の高台にあり、その高台に沿って成就院、五百羅漢寺、海福寺、蟠龍寺、大聖院、大鳥神社と目黒川と羅漢寺川に挟まれた低地に多くのお寺があります。
 この項では狭い範囲ですが、目黒不動尊として知られている龍泉寺にある階段坂とその周辺の坂を歩いてみました。 
 
           
 目黒不動尊男坂・女坂  標高 (坂上)m、 (坂下)m、 差m
 男坂と女坂の位置関係(Google Mapより抜き出し加筆)  男坂上  男坂下
 女坂上  女坂中   女坂下と湧水?
女坂下(奥の石階段):手前は役の行者への階段?   役の行者の銅像
     
 これらの坂の標は見つかりませんでした。「目黒区文化財マップ」にも「目黒の坂・みち」にも載っていませんでしたが、高台にある神社仏閣の例として直線的な男坂と回り道をする女坂があることは常のようで、ここにも上の参照図のように例外なく男坂と女坂がありました。
 
「今昔 東京の坂」には、ここ目黒不動堂の独鈷の滝は「当山の垢離場なり、承和十四年(847)」と大変古くからの霊場となっているようです。坂は「今昔 東京の坂」には男坂は「急傾斜の石段四十七段、真中に鉄の欄干が通っている。」とあるように直線的な非常に急傾斜の階段坂です。階段上傍には写真上中にあるように”お百度石”があります。女坂は男坂の右側(階段下から見て)少し奥に少し斜めに上がっていく石段ともうひとつ奥にも石段があります。手前の石段は女坂途中にある”役の行者”の銅像が祀られている祠がある場所への階段で、さらに奥の石段がおんあさかのようです。こちらは緩やかに上っていて途中に踊り場もある階段坂です(役の行者への階段と交わっています。)。女坂の方にはいろいろな史跡があり史跡を鑑賞しながら上って行く趣があると思います。女坂下には青銅製の龍の口から湧水と思われる水が流れ出ています。
どこの神社にある男坂、女坂も同じようなことが言えますが、女坂も結構な傾斜を持ちかなりハードな上り下りとなります。この目黒不動の女坂もご多分に漏れず途中踊り場があるものの結構な傾斜を伴っています。
 余談ですが「目黒区大観」には「
べんたう山 林業試験場の北側に續いた瀧泉寺の墓地のある山を、俗に○く呼んで居るが、此處には瀧泉寺代々の別当當の墓もあり、小泉清治氏は別當の墓のある山なれば別當山と云つたものが、べんとう山と訛つたものではないかと云つて居た。・・・」とあります。
           
 三折坂(別名:御降坂 みおりさかと読む)  標高 (坂上)m、 (坂下)m、 差m
 三折坂上  三折坂中のカーブ  三折坂下と木標
 この坂の標には『三つに折れ曲がった状態から三折坂とよばれるようになった。また、目黒不動への参詣者が、この坂を降りていくので、「御降坂」とよんだともいわれる。』と書かれています。坂は目黒通りの金毘羅坂途中、目黒寄生虫館手前を左折する古道を行くと途中不動公園がありその十字路少し行ったところが坂上となって狭くひどく急傾斜の坂名の通りに折れ曲がった坂道が下っています。その左脇は目黒不動尊の敷地となっていてコンクリート塀と金網で高く仕切られています。急坂で折れ曲がった大変趣のある坂道です。古くからの道筋にある坂のようで(歴史的農業環境シシテシステム参照)、坂下を少し進むと次に説明する”石古坂”下に出ます。この道には”目黒不動尊参道”と書かれた鉄柱が建っています。「目黒の坂・みち」には坂上を「目黒不動の裏山の辻」と示し、「坂を下ると、右側のマンション前に、わき水が出ている。」とも書かれていますが、その湧水は見つかりませんでした(この小冊子は「月刊めぐろ1972年3月〜1984年2月の掲載記事を再構成・編集した。」とあり、その後の開発でなくなったか、枯れてしまったのではと推察されます。)。また、「目黒区大観」には「みをり坂 不動尊の横門を出て右へ西町の方へ登る坂道の名稱である。坂の形が三つに折れて居るから、三折坂と云ふのか、参詣者が此の坂を降つて行くから御降坂と云ふのか、いづれとも判明しない。此の坂は殆んど忘れられかけて居る。」とあり、これらの資料から察しますに、樹木がうっそうと繁った人通りも少ないさみしい坂道であったようですが、私としましてはこの坂道の雰囲気がとても気に入っています。
           
 石古坂(別名:石河坂 いしこさかと読む))  標高 (坂上)m、 (坂下)m、 差m
 石古坂上    石古坂下と木標
この坂の標には『その昔石ころが多い坂だったので、石古坂と呼ぶようになってといわれる。他に、古地図に記された「石河坂」が転じた説などがある。』と書かれています。坂は三折坂下からの道が石古坂下続いているゆるやかに上りながらゆっくりと大きくくねっている坂です。「目黒の坂・みち」ではこの坂を「以前、この坂は、かなりの急斜面で、大八車なんかが通る時には、ひどく汗を流していました。確か、一銭か二銭のだ賃をもらうために、坂下で大八車を待っては、後押しをしたものです。」との証言が載せられています。現在では想像がつかない緩やかな坂となっています。「江戸切絵図集成 近江屋版」を見ますと、権之助坂からの道が”此末ヂ〃イガ茶屋ヘツヅク”とあり、目黒川を渡った辺りからの道が”目黒道は青山辺笄下渋谷木ヨリナレハヂ〃イガ茶屋ヘカカリテ此辺へ出ル”とありその道が不動裏を通って坂名も坂の印(|||)も描かれていませんが、その先は”此末戸越村”とあります。この道筋に三折坂と石古坂があったようで江戸城内から戸越方面へ出る古道(目黒道)にあったようで、坂上は品川区に入ってしまいます。また、「今昔 東京の坂」には「「郷土めぐろ 第十四集」によると、坂名の由来は、この坂が石ころの道にあったに因む。また石古坂よりは石子坂のほうがふさわしいとも言っている。」とあります。また、石川悌三氏の書かれた「東京の坂道」には「『御府内場末往還其外沿革図書』に、石河坂とあり、坂下に小川が流れている。イシコはイシカの転訛であろう。」としています。 
           
           
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