どぜむ坂、柿の木坂、天神坂、化坂、氷川坂、しどめ坂、太鼓坂、谷畑坂、睦坂、蜀江坂、寺郷の坂、兵庫坂、鉄飛坂、鶯坂、稲荷坂、ちどり坂
 旭坂 
ここでは目黒区の南西部に当たる地域、環七通りから西側の坂を探索します。 この地域は西には世田谷区が位置し地形的にも大変複雑な形をしていあす。その分坂道が多く残されています。しかし地域開発でなくなってしまった坂(蜀江坂、等)や道が地域開発で造り変えられて本来の坂の位置とはずれてしまった坂(化坂)や坂名はありますが人知れずの坂(稲荷坂、ちどり坂、旭坂:これらの坂はたぶん新しい坂道ではないかと思われます。)等々あり、また史跡も多く残っています。
 
 
 この地域の特徴が判る”Google Earth”から取り込んだ4種類のロール・オーバー図を作成してみました。この地域の地形は現目黒通りが北東方向から南西方向へと通っていますが、”歴史的農業環境システム”と見比べてみていただくとお判りの通り、旧道は曲がりくねり、都立大学駅付近で大きく北側に迂回するような道となっていますが、現在の道とほぼ同じような道となっています。また、呑川本流が中央西から都立大学駅のある辺りで南下していますが、その本流に対して2つの支流が、ひとつは化坂方向から(呑川駒沢支流と呼ばれています。)、もうひとつは東が丘一丁目方向から柿の木坂三丁目、二丁目、一丁目と流れた支流が(呑川柿の木坂支流と呼ばれています。)、都立大学駅付近で合流しています。陰影図を見ますととの川筋に沿ってはっきりと判るきれいな低地と高台になっています。その呑川やその支流に向かって高台から坂道が下っているのも見て取れます。江戸時代にはこの地域は江戸朱引き外であり道も田舎道があるくらいのようですが、今も昔からの道や坂道がそのまま多く残っている地域でもあり歩いていて大変面白いところでもあります。 
 ひとつの試みとして上の4番目の地形図ですが、”歴史的農業環境システム”からこの地域を抜き出し、現在の地形図とロール・オバーして明治初期まであった道が現在の道とどのように重なっているか、またどれだけ変化してしまっているかを表してみました。完全一致とはいきませんができるだけ現在も残る道に沿って黄色で表現してみました。黄色の実線は目黒区が発行している”目黒区文化財マップ”に示された実際に今に残る古道です。また黄色の点線は”歴史的農業環境システム”から推測して現在の道と重なり合っている場所、現在とは異なった道筋となっている所を書き込み”歴史的農業環境システム”上の道とを比較してみました。そのほとんどが暗渠化されてしまっている呑川本流や呑川駒沢支流、呑川柿の木坂支流、それに目黒区と世田谷区の境を流れていた九品仏川を水色の点線で表してもみました。これから判ることは、この地域の多くの坂は昔あった道筋にありそれが現在も残っているということです。この4番目のロール・オーバー図にカーソルを何回も何回ものせたり外したりしてみると坂道と道筋の重なりがはっきり、またかつての川筋との比較もよく見えて大変おもしろい重ね図だと思います。地形と坂道と低地と台地が非常によく判る比較図と思います。また、読者各自がこれらの地形図を見ることにより何か新しい発見をしていただけるのではないかと期待してもおります。
 前講釈はこれくらいにして早速本題に入っていきましょう。
           
 どぜむ坂(別名:どぜも坂)  標高 (坂上)38m、 (坂下)30m、 差8m
 どぜむ坂上  どぜむ坂下  どぜむ坂の道標「」
 この坂の標には『坂名の”どぜむ”は堂前(どうぜん)の意味で昔このあたりの道端にお堂があったことから”どぜむ坂”と呼ぶようになったといわれる。また、この土地の”土左衛門”なる人がひらいた坂なので、”どざえもん坂”、それがなまって”どぜも坂”、”どぜむ坂”と呼ばれるようになったともいわれている。』と書かれています。坂名の標は写真で見るように銅板のりっぱな標ですが、長年の風雨で刻んである字が薄れてきていて読みずらくなっています。坂は目黒通りにあり、東急東横線の”都立大学駅”から目黒通りを北すぐに柿の木坂下となり柿の木坂を上って環状七号線と交わったところから少し北に進んだところがこの坂の坂上になります。道は現在の主要な通りとなっており幅の広い整備された車の流れの大変多い道にあります。環状七号線が南東から北西に走っていますがこの道が台地の尾根を走っている形となり、そこから北東に下っていくのが”どぜむ坂”です。”どぜむ坂”とは面白い坂名と思いいろいろ調べてみましたところ、目黒区発行の”目黒の坂・みち”には載っていなく、「今昔 東京の坂」には「柿の木坂上から北東に下る。目黒通りの広い坂。坂名は坂を開いた土左衛門の名が転訛したものという。」としています。坂の傾斜は大変緩やかですが、柿の木坂に比べ昔の資料がなく整備される以前はどのような坂道であったかを推し量ることはできません。 
           
 柿の木坂(別名:柿ノ木坂)  標高 (坂上)38m、 (坂下)26m、 差12m
 柿の木坂上  柿の木坂の道標  柿の木坂下
 この坂の標には『この坂の途中に人目につく大きな柿の木があったのでこの名がついたといわれる。また、近所の子供が、この坂を通る野菜を運ぶ荷車から柿を抜きとったため、「柿抜き坂」が変って「柿の木坂」になったという説もある。目黒通りが今のように広がる前は、現在の東横線高架橋の高さまで登る急な坂であった。』と書かれていますが、どぜむ坂標と同じく、経年劣化とその上にいたずら書きがあり、判読には大変苦労しました(このような心無いいたずら書きが都内に限らずいたるところにあり、2020年にオリンピックがある日本としては情けないことですね。)。坂は目黒通りの環状七号線を挟んだ”どぜむ坂”とは反対側にあり、東急東横線都立大学駅へと下っている広く整備されたなだらかな坂道ですが、標には坂上は写真右に見える歩道橋の奥の東横線の高架までの高さがあった非常に傾斜のある坂道であったようです。柿の木坂上がこの位置にあったのであれば、反対側の”どぜむ坂”の坂上も同じ高さであったと推察され、環状七号線の通るこの尾根ももっともっと高い位置にあったのではと推察されます。坂名についてはその他に「この辺りは柿の木が多く、特に坂のそばに、ひときわ大きな柿の木があったことから、柿木坂とよばれるようになった。」や「かけ抜け坂 この辺り一帯は、人家が少なく、夕暮れになると人の往来がぱったり途絶え、さびしい坂だったので、みんながこの坂をかけ抜けて通ったという。」とも目黒区発行の”目黒の坂・みち”に書かれています。
           
 天神坂  標高 (坂上)36m、 (坂下)28m、 差8m
 天神坂上  天神坂下  天神坂上近くにある北野天神
この坂の木標には『坂の途中に北野天神社があり、天神様(菅原道真)を祀っていることからこの坂名となった。坂のあるこの道は、もとは駒沢方面へ通じる古道であったが、現在は直線的になり経路も変更になっている。』と書かれています。この坂は東横線の都立大学駅から目黒通りへと出て、目黒通りを渡って2区画進んだところが坂下になっています。坂は商店街の道にあり傾斜も比較的にきつい坂上の道が少し狭くなっている道にあります。坂上左側には”都立大学付属高校”や”目黒区民キャンパス”があり、大きな図書館もあり目黒区史や歴史書がたくさんありよく調べ物をしに訪れもしました。この坂のある道は古道であったようで”歴史的農業環境システム”で見ましても天神坂のある道が北へと通っています。”目黒区文化財マップ”にはこの道筋と思われるところに3基の庚申塔(五十嵐宅庚申塔、浦村宅庚申と大辻の庚申(現在は八雲氷川神社内に移設されてあります。))が書かれており、この道筋にあったのではと思われます。 
           
 化坂(ばけさかと読む)  標高 (坂上)37m、 (坂下)32m、 差5m
 化坂上  化坂下  太鼓坂の説明にあった地図の”化坂”の位置
 目黒区文化財マップにある化坂(赤線)  旧化坂上  旧化坂下
 この坂の木標には『元の化坂は耕地整理のために消滅している。武蔵野台地の斜面に多い赤土層に砂礫層が露出し、湧水が出るところを「はけ」といった。それが転じて化坂となったといわれている。また、この坂が衾と深沢の堺を分けたので「分け坂」とも呼んだという。』と書かれています。「目黒区大観」には、「衾町光が丘住宅地の北?にあった坂で、宮前町の氷川神社金藏院前から、深澤方面へ通ずる蕉道は耕地整理の爲めに廢せられ、・・・・ 俗説に依れば往古此の坂の下より獨木舟の化石を發掘したと云ふ。」と書かれていて、その場所は写真右の丁度交差点辺りではないかと推測されます。坂は目黒通りを都立大学駅から下り、中根一丁目9の角を自由通りに折れて進んだ八雲三丁目5角にあります。その角を左折したところが坂上となり木標が立っていますが、この坂道が本来の化坂ではないとのことです(目黒区やご近所の方の話)。では耕地整理される前の化坂はどの辺にあったのでしょうか探してみました。その証拠が下の”太鼓坂”の説明をしている板に”化坂”の位置と坂がどのようになっていたかがわかる地図がありました(写真右上)。左上に示しました”Google Earth”の地形図から坂上は写真中の民家の角、坂下は写真右の商店の角であったと推察されます。ご覧の通り今は民家の下となってしまっています。坂上にある木標の位置が坂上で、そこから斜めに民家下を貫いて下っていたようですが、現在はまったくその形をうかがうことはできません。
           
 氷川坂(別名:宮前坂)  標高 (坂上)34m、 (坂下)26m、 差8m
 氷川坂上  氷川坂下
 氷川坂下から氷川神社を望む
 この坂の木標には『近くに氷川神社があるので呼ぶようになり、この坂下あたりを坂口といった。坂のあるこの道から氷川神社前を右折し、商店街を通る道は二子道と呼ばれた古道である。』と書かれています。坂の木標は”氷川坂”となっていますが、「今昔 東京の坂」には”宮前坂”とあり、別名が”氷川坂”と書かれていて、「氷川坂は、新しくつけられた名である。」としています。坂は都立学芸大学駅から目黒通りを等々力方向に進み、八雲三丁目の東京聖書協会の建物の手前を右折した道中にあります。この道は「目黒区文化財マップ」にも載っていますとおり二子道と呼ばれた古道で、目黒通りのある尾根から氷川神社の方向に下っています。坂下には”呑川本流”の流れ跡が暗渠となって緑道となっています。目黒通りから右折して入るとなだらかにゆっくりと右にカーブしながら下っていて坂下付近は少し傾斜があります。 
           
 しどめ坂(別名:しとみ坂、しとめ坂)  標高 (坂上)38m、 (坂下)27m、 差11m
 しどめ坂上  しどめ坂下  しどめ坂上から見た薬研(低地は呑川跡)
この坂の木標には『「しどめ」とはバラ科の草ぼけ(しとみ)のことで、赤い花の咲くとげのある木である。昔はこのしどめが、呑川の岸辺に群生していたので坂名になったといわれる。』と書かれています。坂は氷川坂と同じく坂上は目黒通りに交わっています。氷川坂から自由通りを隔てた2本目の道にあり坂中ほど右側(坂上から見て)には八雲保育園、左側には宮前小学校がある傾斜のちょっとある直線道の坂です。この辺は荏原台地のはずれにあたり台地上を目黒通りが通り、坂下には呑川が流れていた典型的な薬研の形をした地形の地域です。目黒区発行の「目黒の坂・道」には「「しどめ」はクサボケ(しどみ)のことで雑木林やあぜ道に多い、とげのある小灌木。春に赤い花を咲かせる。・・・この辺りは雑木林で畑も多かった。畑で小麦やさつまいもが作られていた。しどめ坂はもっと急勾配で、坂を下ると、今の八雲保育園のすぐ向こうに曲がりくねった呑川が流れ、周りには田んぼが広がっていた。・・・」とあります。「歴史的農業環境シシテム」でこの辺を見ましても呑川や支流の流れていた低地には”水田”、”畑”と書かれた地域が占めています。しかしながら現在は御覧の通り呑川やその支流は暗渠化され(一部は緑道となっている。)呑川を挟む傾斜地帯は全くの住宅地となってしまっていて昔の面影はまったくうかがえません。 
           
 太鼓坂  標高 (坂上)38m、 (坂下)27m、 差11m
 太鼓坂上  太鼓坂下  太鼓坂途中にある説明
この坂の説明板(坂下から見て右側の工場のような建物の道に沿った壁面にあります。)には『昔、この坂の斜面が太鼓のような形をしていたので、または、急坂のため太鼓を転がすように人が転げ落ちたので、太鼓坂と呼ばれるようになったといわれています。また、目黒には多くの坂があり、この付近だけでも他に5つの坂があります。』と書かれています。説明の横には太鼓坂とその周りの5つの坂の位置関係がわかる地図が添付されています。坂は氷川坂、しどめ坂と同じく目黒通りを坂上とし、坂下を呑川が流れていた荏原台地から呑川の低地へと下っている坂道です。
この目黒通りを坂上として呑川のある低地へと下る道は昔から多くあったようですが、不思議なのは氷川坂としどめ坂の間、自由通りと称する道にやはり目黒通りから下る坂道が昔からあったように歴史的農業環境システム図にもあ描かれていますが、この坂道には名前がありません。
 
           
 谷畑坂  標高 (坂上)38m、 (坂下)27m、 差11m
 谷畑坂上  谷畑坂下  この坂の木標には『旧衾村の字「谷畑」にあることから谷畑坂と呼ばれた。この坂下はかつて湿地で鷺草が自生していた。またこの道は、二子道(現目黒通り)から九品仏方面への道として耕地整理以前から現在に近い形で、直線的にあった古道であった。』と書かれています。坂は太鼓坂よりひとつ等々力側に行った、氷川坂。しどめ坂、太鼓坂とは反対側の九品仏川の流れていた低地へと下っている傾斜も少ない長いなだらかな坂道です。










           
 睦坂  標高 (坂上)38m、 (坂下)32m、 差6m
 睦坂上  睦坂下  この坂の木標には『この坂のある道は、昭和の初め耕地整理によって新しく造られた道である。当時この付近に住んでいた人々が親睦を願って名付けた。』と書かれています。坂は目黒通り中根西三叉路から東急東横線方向に入るY字路を少し進んだ自由通りが目黒通りと交差する延長上の道にある何の変哲もない住宅街にある細い坂道です。「今昔 東京の坂」にも「東急東横線自由が丘駅ができ、この地が繁栄の地となると共に、町内親睦の意での坂名である。」とされている比較的に新しい坂道のようです。歴史的農業環境シズテム図を見ましてもこの道はなく、今の自由通りから下って来た道は中根三叉路からくる道との交差点で大きく迂回するような形で谷畑坂方向へ行くように書かれていて、この坂道は明治初期〜中期にはなかって道です。





           
 寺郷の坂(別名:衾の茶屋坂)  標高 (坂上)34m、 (坂下)26m、 差8m
 寺郷の坂上  寺郷の坂下  寺郷の坂中にある屋敷門
この坂の木標には『この坂上には立源寺があり、かつてこの周辺を「寺郷」といった。また、この道は江戸時代、九品仏へ向かう道で、この辺りに水茶屋があったため「衾の茶の屋坂」とも呼ばれていた。』と書かれています。坂は目黒通り中根道叉路を東急東横線のはh知っている方角へと進み立源寺を過ぎたころから傾斜が始まりゆっくりとくの字に曲がり始めたところが坂上のようでそこには旧名主岡田邸のあった長屋門があり、そのあたりから傾斜がきつくなって中根公園の裏を下っていき、坂下には中根小学校があります。この坂のある道は昔からある道のようで「目黒の坂・みち」には「江戸時代の初め、天和のころ、衾村の寺郷(茶屋坂上り口の右手一帯の地名)に、奥沢の浄真寺(九品仏)参りの人びとを当て込んだ四軒の水茶屋があった。当時の浄真寺へは江戸だけでなく、方々からの参詣遊山の人びとが、この衾の茶屋の前を通って、九品仏への向かったという。・・・」とも書かれていて古くからの道であったことがうかがえます。またこの道は荏原台地の外れであるこの寺郷の坂を下って呑川本流のある低地へと下っていき反対側台地(目黒台地)へと上る鉄飛坂へと続いています。 
           
 鉄飛坂  標高 (坂上)38m、 (坂下)24m、 差12m
 鉄飛坂上(左側に木標がある)  鉄飛坂中  鉄飛坂下
 鉄飛坂上にある庚申塔群(右側の建物)  この坂の木標には『「てっぴ」とは山頂、てっぺんを意味し、それが坂名になったといわれるが、他にもポルトガル人、テッピョウスという人物が住んでいたからや、鉄砲鍛冶がいたからなど諸説がある。』と書かれています。坂は呑川本流を挟んで反対側には寺郷の坂があります。坂下からは大きくゆっくりと右のカーブしながら上っていく坂上にかけては傾斜もきつくなってきます。また、坂上木標のある少し上には帝釈堂があり、鉄飛坂庚申搭群もあります(庚申塔群につきましては、「目黒区の庚申塔」で目黒区内の庚申塔をまとめて特集していきます。この鉄飛の謂れには諸説ありとしながら、「目黒区大観」には「鉄飛の地名と故事 徳川幕府の初期時代、大久保石見守長安が、葡萄牙人(ポルトガル人:製作者記)「ヒモンヤス」「テッピョウス」の二人に就いて鉱山採掘の方法を授得し、佐渡金山の大改善を行はんとした事があった。此事は「慶長切支丹怪秘記」と云ふ書に出て居るが、確実であるかどうかは信じ難い。然してこの二葡人の名が、「碑文谷」及「鉄飛」の起源であるとまで、筆の序で書いてあるが、これ亦当てにはならぬ。「切支丹灯籠」と云ふ書には之を  して 碑文谷・鉄飛の地名は、右葡国人より遥かに古くよりあり、後三年の役の従軍者に碑文谷太郎道政の名あり。鉄飛は後三年役の降人鉄ノ飛を居らしめしによりて起これる地名なりと云ひ、又鎌倉時代の名主帳に鉄飛十郎兵衛の名あり、又た蒙古襲来の時の金沢殿着到帖に鉄飛五郎の名あり。云々 と慶長年間よりも約三百二十年前の元寇襲来の時及それ以前より鉄飛の名があることを述べている。・・・・」とあります。しかしながらこの鉄飛という名の人がこの坂の近くに住んでいたという記述はなく、鉄飛という名の人が元寇のころには居たとしかわからない。そこで「目黒の坂・みち」には加えて「鎌倉時代、武蔵野国の荏原一帯を領していたのが荏原太郎義利という領主であり、その家臣に鉄飛十郎兵衛という人がいて、今の鉄飛坂上の辺りに館を構えていた名主であった・鉄飛の館があったから、里人がその名を坂名にした。」としています。また「「全国方言辞典」によれば”テッピ”とは”山頂””てっぺん”などの訛で比較的高所にある屋敷を”テッピ”と呼ぶ例があった。」と記しています。この辺が正しい由来ではないでしょうか?
           
 蜀江坂(現在は存在しません。)  標高 (坂上)34m、 (坂下)26m、 差8m
 蜀江坂上  蜀江坂下    
        
      目黒区の資料に載っていた蜀江坂
 この坂は現在では存在しません。ご覧のように人家となってしまっています。「目黒の坂・みち」にはそれでも”かつて”と称してこの坂が紹介されています。そこには1978、03と年月が入った写真が掲載されていますが、傾斜面の雑草地のようで、この記載には「中根2丁目18番を西(立源寺裏)から東(呑川)に下る農道で、野良仕事の行き来に利用されていたが、昭和初期に行われた耕地整理により廃道となった坂である。」また、「関東大震災後に住居を求める人がたくさん移ってきたことや、東横線の開通によって市街地化され、耕地整理を行い、整備した。」と書かれています。そこでその住所を頼りに「目黒区文化財マップ」に書かれている蜀江坂を探してみました結果、坂上は立源寺前から坂下は中根公園に行く道までの間にあるそれらしい空間がありましたので左の2枚の写真を撮ってきました。昔は農道であったとはまったく想像もできない現在の様子となっています。
           
 兵庫坂  標高 (坂上)34m、 (坂下)24m、 差10m
 兵庫坂上  兵庫坂中  兵庫坂下
 この坂の標は見つかりませんでした。「今昔 東京の坂」にも目黒区発行の「目黒の坂・みち」にも載っていませんが、いくつかのホームページにありましたので、探しに行きました。坂は坂上を寺郷の坂と同じくし、中根公園を挟んで寺郷の坂の反対側にあります。中根公園に沿うようにゆっくりと大きくカーブしながら呑川暗渠の方へと下っていきます一方通行の道にあります。
           
 鶯坂  標高 (坂上)36m、 (坂下)24m、 差12m
 鶯坂上  鶯坂下  鶯坂上にある木標と石標
この坂の木標には『昔この辺りは切り通しになっていて、両面に竹や杉が残り、鶯がよく訪れて鳴いていたのでこの坂名になったといわれている。』と書かれています。いつのころからある坂なのか資料を探してみました。        坂は大岡山駅から少し北に進んだ大岡山二丁目21、22の道にあり、鉄飛坂と同じ目黒台地の端に位置します。直線の短い坂ですが名が知れ渡っているのでしょうか木標の横には石標もあります。鶯坂を下っていきますと坂下には呑川の暗渠道に突き当たります。
           
  以下の3つの坂につきましては「目黒区の文化財マップ」にも「今昔 東京の坂」にも載っていません。しかし「郷土目黒」の第四十八集に”自由が丘・緑ヶ丘物語”と題して昔からのなれそめが紹介されていましたので、その資料を基に探してみました。以下の坂は新しい坂のようで戦前に耕地整理されて造られた坂道のようです。下のロール・オーバー図は左はGoogle earthの陰影図と歴史的農業システム図を比較してみたものです。歴史的農業環境シシテム図をご覧になってお分かりと思うのですが、この近辺は九品仏川が流れていた低地に向かって台地から崖が続いている所です。明治の初めのこの地域は、この低地はほとんどが田んぼで台地上が畑であったようです(歴史的農業環境シシテム図より。)「郷土目黒」の四十八集に特集されている阿部信彦さんという方が書かれた「自由が丘・緑ヶ丘物語」には明治に十二年頃のこの近辺はほとんど手が入っておらず、歴史的農業環境システム図と同じような状況であったようですが、大正10年のこととして掲載されておられる地図ではもう現在と同じような道が整備されて描かれています。田畑もほとんどがなくなり、特に自由が丘駅左側には大きな街並みが出現しています。緑ヶ丘側はまだそれほどでもありませんが寺郷の坂のある道から低地側はすっかり耕地整備されてしまいいていて真っすぐな道が何本も台地側から九品仏川のある低地へと描かれています。都立大学前駅と緑ヶ丘駅を結ぶ道路から西側、東急東横線が走る間には約8本の新しい道が描かれていますが、なぜこの3本の坂道にだけ名前が付けられたのかは書かれておらず、坂名の由来のみが説明されています。明治時代から大正時代を経て現在に至るまでの歴史が書かれた大変貴重な資料です。ご興味のある方は是非一読されてはいかがでしょうか?
 阿部信彦さんの書かれた歴史的流れを参照しながらこの辺を歩くのも非常に興味の沸く江戸歩きになると思います。
           
                        
                                         歴史的農業環境シズテムと近代図との比較
                
           
 稲荷坂  標高 (坂上)32m、 (坂下)24m、 差8m
 稲荷坂上  稲荷坂下  この坂の標はみつかりませんでした。「郷土目黒」には「坂の途中に江戸時代、名主のみに許されていた立派な長屋門を持つ家のお稲荷さんがあったので、戦前は稲荷坂と呼んでいた。とあり、坂道としては古くならあったようです。坂は緑ヶ丘一丁目の住宅街にあり傾斜もさほどなく下っている直線坂です。この辺は比較的新しい住宅街のようで他にも同じような坂がいくつも並んでいます。とても江戸時代からある坂道だとは思えない雰囲気です。平衡する他の細い坂道の方が何か時代を感じさせるものがありましたが?








           
 ちどり坂  標高 (坂上)32m、 (坂下)24m、 差8m
 ちどり坂上  ちどり坂下  この坂の標はみつかりませんでした。上の稲荷坂からごく細い道を一本隔てて並行している坂道です。坂は細い直線道にあり一方通行のようです。
「郷土目黒」にも坂名は「この坂を”ちどり坂”と称していた。」とのみ書かれていてその由来は不明です。












           
 旭坂  標高 (坂上)32m、 (坂下)24m、 差8m
 旭坂上  旭坂下  この坂の標はみつかりませんでした。同じく「郷土目黒」では、「戦前”旭坂”と名付けられていた。」とのみ書かれています。














           
           
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