けこぼ坂、別所坂、中山坂、新道坂、旧新道坂、目切坂、上村坂、小川坂、半兵衛坂、謡坂、稲荷坂 
           
ここからは中目黒駅周辺にある坂道をたどります。中目黒駅周辺の坂も目黒駅周辺の坂と同様に目黒川を挟んだ両側に点在します。ここでもやはり地域のほとんどが”田”、”畑”であり、その中を数少ない道が通っていて、街道とまではいきませんが、港区や渋谷区を経由して世田谷区に抜ける主要な道筋になっていたようです。現在でもその多くの道筋がそのままに残されているようですが、都市の開発に取り残されたように隅に追いやられてさみしく存在しているように見えます。下の3番目の「歴史的農業環境システム」の図とのロール・オーバー図を見ていただくとその道筋がはっきりと見ることができると思います。ここでもそれらの道筋がその当時は大変重要な道筋であったことに光を当てながら坂道探しをしていきたいと思います。 
           
 
 この辺りの坂は、昔から続く道筋にあるようです。上の3番目の”Google Earth”の陰影図と”歴史的農業環境システム”とのロール・オーバー図を見ていただいてもお分かりの通りほとんどの坂道が江戸時代から残る道筋にあります。それらの道筋には開発を逃れることのできた”道しるべ”や”庚申塔”、”馬頭観音”、”道標”といった国宝級の史跡とは全く異なる庶民にとっての生活に密着した史跡がたくさん残されていることです。道筋や坂だけではなく、それらの史跡を重ね合わせることで昔を生きてきた先人達の生活がいかがなようなものであったか現代のように道が開発され、車が発達している現代にはない十分ではないにしてもゆったりとした中に小さな知恵を出し合って懸命に生活していた姿が浮かび上がってくるのではないでしょうか? 
           
 けこぼ坂(別名:けころ坂)  標高 (坂上)26m、 (坂下)14m、 差12m
 けこぼ坂下  けこぼ坂中の街かど公園  けこぼ坂上
 目黒区役所上にある歩道橋からけこぼ坂下  この坂の標は見つかりませんでした。坂は中目黒駅から山手通りを南に下り駒沢通りとの交差点を左折してすぐに”正覚寺”と言う大きなお寺があり、そのあたりが坂下となって右手に目黒区役所を見ながら上っていきます.。大きな整備された交通の激しい道にあります。坂下から歩いてみますと傾斜はそれほどないと見えますか長い長い坂でかなりのスタミナを消耗してしまう坂道です。坂途中には”けこぼ坂街かど公園”と言う小さな公園があり、その少し上に目黒区役所があります。目黒区発行の”目黒区の川と用水・坂の今昔”と言う資料の中に「けこぼというのは、目黒の古い方言で、切通しの崖など赤土面が崩れて、その跡が浅い洞窟状になってくぼんでいる状態をさして呼んだものです。この坂は中目黒村の人々にとっては渋谷広尾に通じる重要な通りで、江戸時代から、昭和20年代まで”祐天寺通り”と呼んでいました。現在、総合庁舎のあるところは一部は浅海牧場でした。・・・」とあります。坂ももっともっと傾斜があったようです。”けころ”とはを調べてみました。「塵塚談」(江戸時代の随筆)には、「けころといふ妓女の事、・・・・」とあり遊女のことのようですが、「目黒区史跡散歩」では、”目黒区の川と用水・坂の今昔”と同じ文章が書かれています。また、「近年はけころ坂となまって呼ばれるようになり、坂名起源にも珍説が生まれてきた。」ともあり、崖の崩れた様子から来た坂名が本当のようです。







           
 別所坂  標高 (坂上)32m、 (坂下)12m、 差20m
 別所坂上  別所坂中のカーブ  別所坂中のカーブ
 別所坂下  別所坂上にある庚申搭群  新富士のあったあたりからの別所坂を見下ろす
 別所新富士のあったあたりからの遠望  説明板にあった広重の富士展望  別所新富士のあったあたり(建物の場所)
 この坂の標にはこの辺りの地名であった「別所」が由来といわれる。別所坂は古くから麻布方面から目黒へ入る道としてにぎわい、かつて坂上にあった築山「新富士」は浮世絵にも描かれた江戸の名所であった。』と書かれています。坂は中目黒駅から目黒川に沿って下り”川の資料館”近くの田楽橋を渡り十字路を左折した道が坂下となります。また、JR恵比寿駅から南恵比寿方向に歩き、南恵比寿二丁目にある”道しるべ”が中山坂の下に当たり、その中山坂を上り切ったところが”別所坂”の坂上の道につながっています。またこの両方の坂上の平らな部分の中ほどは渋谷区と目黒区の区境となっています。電柱や住宅の番地表示を見ながらこの道を歩いていますと住所が渋谷区恵比寿南からいきなり目黒区中目黒一丁目と変わっています。この坂の上には目切坂上の”元富士”に対して坂上に”新富士”の説明板があり、当時のここからの景観の良さを大勢の人たちが見物に来ていたようです。また、坂上すぐ下には庚申搭群があります(目黒区には庚申塔や道しるべがたくさん残っています。これらをまとめて特集としたいと思います。)。新富士のあった辺りは今は御覧のような建物(写真右下)となって新富士の形は残っていませんが、そのマンション横の通路から奥に入ることができ、そこには”別所坂児童遊園”(写真左下左奥)がありそこから今でも晴れた日には富士山が見えるのではないかと思われる景観に出会えます。真冬の空気の澄み切った日にはきっとすばらしい景観が見られると思います。
この坂はその昔、渋谷を通り江戸へ出られる重要な道にあった坂で、”目黒区の川と用水・坂の今昔”にも、”
中目黒村の人々にとって、直接江戸へ出る胎児な道で、にぎやかであった渋谷広尾(今の恵比寿)へ行くためには、この道しかなかったのです。”とあり、また『今昔 東京の坂』にも、「細い坂がS字形にカーブして北へ上がる。恐るべき旧坂で、昔の姿をとどめている坂である。・・・」とあります。しかしながら別所坂を下った道は今でこそそのまま田楽橋を渡れるようになっていますが、「復元 江戸情報地図」では、別所坂下から真っすぐな道はなく北東方向へ行って”梍橋”を渡るか、遥か南西方向に下って”田道橋”に出るかの道しか描かれていません。その昔は渋谷方面から祐天寺方向へ行くには、別所坂のある道を通って坂下で東北方向へ曲がり、梍橋を渡って今の駒沢通りへ出る方法はありませんでした。
余談ですが、渋谷区の坂を探索していたころに(中山坂を”新富士坂”として掲載)、この別所坂を歩いてみましたが、その頃は丁度坂道の改修工事を行っている時で別所坂下にある木標の辺りは工事用の塀で辺りが見えませんでしたが、今回訪れた日はすでに工事も終わり坂下もきれいに整備されていました。
           
 中山坂  標高 (坂上)32m、 (坂下)22m、 差10m
 中山坂上  中山坂中  中山坂下
この坂は港区の恵比寿西二丁目の交差点をひとつ入ったところが坂下となり、そこには道しるべのお堂があり、お堂の右側の道が中山坂下となります。渋谷区の坂を捜し歩いていました時に、この坂を”新富士見坂”と紹介しましたが、”中山坂”が正解のようです。この坂のある道は坂下は渋谷区南恵比寿二丁目となり、坂上がどこまでかによりますが坂上の平坦な道の中ほどで目黒区中目黒との区境となります。この坂道の全体としては”渋谷区”に位置するのではないかと思いますが『今昔 東京の坂』は目黒区で紹介されていますので、私も改めてここに紹介してみました。 
           
 新道坂(しんどうさかと読む)  標高 (坂上)24m、 (坂下)8m、 差16m
 新道坂上  新道坂中  新道坂下
この坂の標は見つかりませんでした。坂は山手通りの交差点から駒沢通りを恵比寿西方向に進んだ梍樹橋辺りが坂下となります。写真でご覧のように大変大きな整備された道で要所のようです。目黒区発行の「目黒の坂・道」には載っていませんが、同じく目黒区発行の「目黒区の川と用水・坂の今昔」によりますと「江戸時代に・・・目切坂上から目黒川に下る坂道が開かれました(無名だったようです。)。ところがあまりにも急な坂だったので、明治の終わりごろに、この坂の途中から分かれて、今の恵比寿駅や広尾方面に通じる勾配の緩やかな切通しの坂道を造りました。そのために三田用水の水路の下をくぐるしゃれた煉瓦造りのトンネルを掘りました。このトンネルのある坂道を、新しく造った道ですから、新道坂とよびました。・・・玉川電車を通すために、傾斜の更に緩やかな切通しの広い坂道を造ったとき、トンネルは廃道となり、新道坂は坂上部分を失って途中から駒沢通りの大きな坂につながれ、・・・そのため今では駒沢通りの大きな坂を新道坂と呼ぶことにしたのです。」とあります。次に書きますが、この解説の通り駒沢通りの坂道の途中から、その名残と思われる坂道があります。この坂道が江戸時代からの新道坂ではないでしょうか?
この坂のいろいろな説につきましては「郷土目黒」第三十六集に”田丸太郎”という方がたいへん細かく書かれていましたので私も少し参考にさせていただきました。尚ご興味のある方は一読されてはと思います。
 
           
 旧新道坂  標高 (坂上)22m、 (坂下)10m、 差12m
 旧新道坂上  旧新道坂下  「復元 江戸情報図」の新道坂に関する部分
 上の新道坂に対して新道坂途中から東急東横線に沿って少しS字に中目黒駅方向に下っている短い道ですが傾斜のある坂があります。そこには何の説明もなくまた単なる脇道のようですが私にはこちらが江戸時代からの新道坂ではないかと思われてならずしつこく調べてみました。「目黒区文化財マップ」には駒沢通りにある大きな整備された道にある坂を”新道坂”としていますが、目黒区の図書館にあった「目黒区郷土研究会」が発行している「郷土目黒」の第36集に”新道坂”(田丸太郎氏著)と題した項がありましたので読んでみますと、「・・・、いろいろ調べてみますとこの坂は人によってまちまちな事がいわれる面白い坂だということが分かった。」とあり、その所説を解説しています。しかし、@”目黒区文化財マップ”には駒沢通りの大きな坂を新道坂としています。 A横関英一氏の書かれた「江戸の坂、東京の坂」には”     ”とあり、また私の主参考書としている「今昔 東京の坂」には”駒沢通りと東急東横線の間を南に下る、明治以降の新しい坂”としていて挿入されています地図を見ますと私の旧新道坂とする坂道が新道坂と書かれています。また、「復元 江戸情報地図」(右上の図参照:旧新道坂と書いた方)を見ますと、新道坂で紹介した「目黒区の川と用水・坂道」に書かれている内容に合致するのではないかと思われる道筋となっていて、この脇道こそが江戸時代の新道坂ではないかと思われ、「復元 江戸情報地図」のこの部分を根拠としてお借りし私としての考えであるこの坂道を旧新道坂として掲載させていただきました。
この地図からもわかる通り現駒沢通りは江戸時代のころは渋谷区猿楽町と巴山町の間を通り目切坂と新道坂上にでます。目切坂の方の道は宿山を渡り小川坂を通る街道となっていて、新道坂の方は旧新道坂を下り上目黒村に入り何回か角を曲がってまた現駒沢通りにでる道となっています。いつのころからかこの旧新道坂の道をバイパスされ整備され駒沢通りとなって、新道坂もこの駒沢通り上の坂道の名になっていったのでしょう。
           
 目切坂(別名:〆切坂、くらやみ坂)  標高 (坂上)30m、 (坂下)11m、 差19m
 目切坂上  目切坂中  目切坂下
   この坂の木標には『江戸時代の地誌「身辺武蔵風土記稿」の上目黒村の項には「メキリ坂」という名がみえ、渋谷との境にあり石臼の目を切る職人が住んでいたため「目切坂」となったと記されています。由来については諸説ありますが、一八○○年代前半には「めきり坂」と呼ばれていたようです。』と書かれています。また、「新編武蔵風土記稿」の荏原郡 馬込領 上目黒の項には、「メキリ坂 澁谷村の境にあり、臼のめきりを業とせるもの、この地に居し故名とせるよしなり。」と書かれています。また、目黒区内の図書館で調べた「目黒區大観」には「此坂は上目黒と澁谷區猿樂との間に有る。・・・此の目切りの家は鎌倉時代よりこ○家にて、伊藤興兵衛と名乘り代々上目黒別所に住んで居た。先々代興兵衛は幼名を幸次郎と云ひ非常に器用にて、自家用の石臼を造りし○る上出来なりしため、近隣の好評を博して依頼が續々と現はれた。・・・」とあります。「目黒町誌」には「新編武蔵風土記稿」と同じ内容ながらその後ろに「此の目切の家は伊藤興右衛門と云って、明治十年頃まで坂上に住んで居た。」と書かれており、「目黒區大観」にある伊藤興兵衛とは名前が違っていますが、いずれにしても坂上に腕のいい石臼の目切り職人が住んで居たことによる坂名であるようです。この坂は中目黒駅から山手通りを北西方向に進み上目黒一丁目16の角を右折し宿山橋を渡り少し行きますとT字路となり右折してすぐが”目切坂”下になります。坂は両側に大きな屋敷があり高いコンクリート塀と樹木に覆われていて”くらやみ坂”と別名がついたのもうなずけます。坂上には”目黒元富士跡”の史跡(写真左)がありますが、今は史跡の説明があるばかりで、まったく面影は見当たりません。坂も切通であったのかくねくねと曲がりくねった長い坂道で坂中ほどは傾斜もきつく上り下りするには息の切れる坂道です。昔の地図(復元 江戸情報地図)とGoogle Earthで地形を見てみますと、東急東横線の中目黒駅から代官山駅方向は等高線が狭くなっていて急傾斜な面が続いています。この急傾斜上は”丸旦山(まるたんやま)”と呼ばれていた小高い丘に当たり、世田谷区東方向から渋谷区恵比寿西方向に抜ける、半兵衛坂、小川坂、を経てこの目切坂を上がって恵比寿方向へと延びる街道であったことがわかります。「目黒文化財マップ」を見てみますと、今もその街道筋が切れ切れながらたどることができます。
           
 上村坂(かみむらさかと読む)  標高 (坂上)30m、 (坂下)12m、 差18m
 上村坂上  上村坂中  上村坂下
この坂の木標には『上村坂という名前の由来は、明治時代の軍人で海軍大将・男爵にまですすんだ上村彦之丞(かむみらひこのじょう)の邸宅が、この坂の上にあったといわれている。』とあり、いつのころからあった坂は定かではありませんが、「復元 江戸情報地図」を見てみますと、坂下を目切坂と同じくし三田用水方向へ上がっていく道が、目切坂北西の”中川修理太夫久昭”と書かれた大名の広大な敷地の南東側に伸びています。これが上村坂ではないかと思われますが坂名は書かれていません。この地図集の昔の道は安政三年頃の江戸とその周辺とあり坂道自身は古くからあった無名坂であったと思われます。この坂の木標はありますが、「目黒区の川と用水・坂の今昔」や「目黒の坂・みち」には載っていません。しかし『今昔 東京の坂』には簡単に載っています。坂は別所坂、新道坂、目切坂と同じく北西から南東に流れる目黒川のある低地から渋谷区西恵比寿、猿楽町方面の台地上へと上る坂道のひとつです。目切坂下から一本北西へ進んだところが坂下となり、坂上はエジプト・アラブ大使館とセネガル大使館に挟まれている細い傾斜もあまりない生活道路といった坂道です。 
           
 小川坂  標高 (坂上)28m、 (坂下)11m、 差17m
 小川坂上
 小川坂中  小川坂下
 小川坂上にある坂名の銘  この坂の木標はなく坂上にある烏森小学校の門の角のコンクリートに坂の銘板が埋め込まれています。その説明には『かつて、この一帯を「小川」といい、坂下に広がっていた田んぼを「小川田んぼ」と呼んだ。この辺りの旧家小川家が地名の由来といわれる。また、この坂のある道は、鎌倉へと通じる道として中世の頃開かれた鎌倉道であった。』と書かれています。坂は中目黒駅から山手通りを北西に進み目切坂下からの道との交差点を斜め西に入っていく曲がりくねった道にあります。『今昔 東京の坂』にも「区立烏森小学校前をカーブしながら東北に上がる。旧道で、目黒川の宿山橋、目切坂へつづく、古い鎌倉道だといい伝えられている。」と書かれています。目黒区発行の「目黒区文化財マップ」にも目切坂を下って宿山橋を渡り山手通りと交わった斜め西の細いいくつかのカーブのある道を上っていく旧鎌倉道にある坂と書かれています。坂上は烏森小学校があり、この近辺には「小川坂上道標」があったとのことですが、今は小学校内に移設されていて許可なく入って見ることはできません。ここを訪れた時は丁度夏休みの始まりで門は閉ざされていて人影も見えず道標の様子をうかがうことはできませんでした。夏休み明けにも行ってみて小学校の許可を得て道標を見たいものです。坂下一帯を”小川田んぼ”と呼ばれていた田んぼ地帯であったとされていますが、「歴史的農業環境システム」で見てみますと、このころ(明治初期から中期にかけて)には、この辺一帯は”畑”とあり、何が栽培されていたかはわかりませんが、田んぼではなくなったいたようです。




           
 半兵衛坂(別名:はんべい坂)  標高 (坂上)30m、 (坂下)24m、 差6m
 半兵衛坂上  半兵衛坂下  この坂の木標には『江戸時代、この辺りに清水半兵衛を代々名乗る旧家があったため半兵衛坂と呼ぶようになった。尚、この道路は昭和十五年の幻の東京オリンピックの際に整備されたので、通称「オリンピック道路」とも呼ばれている。』と書かれています。坂は小川坂からの道を上り、宿山の庚申塔のある角を左折し少し広い道に出て少し進みますと半兵衛坂上にでます。傾斜は少しありますが短い直線の坂道です。この半兵衛坂のある道の坂上には宿山の庚申塔、東山の馬頭観音、等史跡が多くあります。坂下は蛇崩という名の信号のある交差点になり近くを今は完全暗渠となってしまっています蛇崩川が流れています(”川探し”で取り上げていきます。)。






           
 謡坂(うたい坂と読む)  標高 (坂上)28m、 (坂下)24m、 差4m
 謡坂上  謡坂中の石柱  謡坂下
この坂の木標はありますが風雨に晒され残念ながら読めなくなっていますが坂名の由来については、「目黒の坂・みち」によりますと、「坂名の由来については、資料が少なく、確かなものはない。目黒区郷土研究会の資料によると「ウタイ」の語源が、アイヌ語のウタ、出崎を意味するとある。蛇崩川は、昔、かなり大きな川だったらしく、その川に出崎があり、そこをこの坂が迂回していたのではないかとある。・・・・」とあり「地元の一番の長老の話では橋のわきに十六軒長屋があり、その長屋に長唄か踊りを教える人がいたなんて話も聞いたことがあったな。」とも書かれていますが定かではないようです。また坂途中には石柱がありますが”謡坂”の銘だけで説明はありません。坂は半兵衛坂下の蛇崩の信号のあるY字路を左にとり、少し進んでまたY字路を左に進んだところが坂上となり、山手通りの小さな十字路を小川坂に入る脇道ではなく中目黒方向から見て左折した道をかなり進んだところにある稲荷坂を下ったところが謡坂の坂下となる住宅街の中にある坂道です。坂は低層のマンションの立ち並んである傾斜の少ないまっすぐな道にあり坂途中のマンションの一角に”謡坂”と掘られた石柱があります。個人の土地にあるのでこのマンションの地主さんが立てたのでしょうか?今まで見たことのない立派な石柱です。
           
 稲荷坂  標高 (坂上)28m、 (坂下)16m、 差12m
 稲荷坂上  稲荷坂中の曲がり  稲荷坂下
 この坂の木標には『この近くに刺抜稲荷大明神があるので、稲荷坂と呼ばれるようになった。一説に、この坂はかつての鎌倉道の一部とも言われ、目黒でも古い道の一つである。』と書かれています。坂は謡坂上にある十字路を左折し、蛇崩川の流れていた低地へと下る住宅街の細い道にあります。何の変哲もない小道ですが、いくつかの古地図を見ますとちゃんとこの道が書かれている昔からある歴史のある小道のようです。坂下を少し小川坂方向へ進みますと”烏森稲荷神社”がありそこにある手水の水の出口が面白い形(狐か熊?の頭部)をしていましたので神社の方にお聞きしましたところその手水の水は湧水であるようでかなり冷たい水です。
           
           
  戻る