ここからは、港区の西部地区(首都高速道路三号線と首都高速都心環状線に挟まれた地域から、青山通りと桜田通りに挟まれている地区) の坂道を探し歩きます。下の地形図を見ていただくとお判りの通り、この区域は地形が複雑で、その分坂道もたくさんあります。ですので、ある程度地形や等高線、道路が判るような大きさの地形図にするために、この区域も2部構成にさせていただき表示してみました。 
   
  上の図は港区の西部全体の地形図です   
   麻布、六本木 1  
   首都高速道路3号線と環状線に挟まれた地域を歩いてみました。
    長垂坂、寄席坂、丹波谷坂、不動坂、市三坂、芋洗坂、饂飩坂、永坂、於多福坂、鳥居坂、牛坂、大横丁坂、潮見坂、けやき坂、さくら坂
  内田坂、閻魔坂、霞坂、笄坂
   
             
   長垂坂(別名:なだれ坂、幸国坂、幸国寺坂、市兵衛坂、奈田礼坂)  
   長垂坂上  長垂坂中  長垂坂下
   この坂の木標には、『流垂、奈太礼、長垂などと書いた。土崩れがあったためか、幸国(寺)坂、市兵衛坂の別名もあった。』と書かれています。坂は、坂上から見ますと大きく左にゆっくりと曲がりながらしかもある程度の傾斜をもって下っています。坂のある場所は、首都高速環状線が走る高台から、首都高速3号線側のある谷地側に下っています。傾斜はまあまあといったところで、この辺でナダレがあったために付いた坂名かは判りません。「新撰東京名所図会」には、なだれの儀は勾配強からずして斜に傾きたるを邦語なだれといへるより、蓋し其地勢上に得たる名なるべし。」とあります『江戸切絵図集成』には、飯倉片町から一本奥に入った、麻布市兵衛甼から麻布御箪笥甼へ下っている坂となって「ナダレ」と書かれています。この時代では、大名屋敷が周りに多く描かれていますが、今は住宅地となっていて普通の生活道路となっているようです。
             
   寄席坂
   寄席坂上  寄席坂中  寄席坂下
   この坂の木標には、『坂の途中の北側に、明治から大正三年にかけて、福井亭という寄席があったために、寄席坂と呼びならわすようになった。』と書かれています。坂は、マンション群が立ち並ぶ坂上から、車が一台しか通れないような狭い道を大きくうねって青山通りに下っています。傾斜はまあまああり、歩いての上り下りはかなりの体力消耗となります。「今昔 東京の坂」には、長垂坂とほぼ並行して書かれていますが、明治に造られて坂のようで、『江戸切絵図集成』には道はありません。六本木道(今の外苑東通り)とナダレ坂の間は、大きな大名屋敷地と複数のお寺が存在しており、この間には道は描かれておりません。(余談:『江戸切絵図集成』の赤坂絵図のペイジの現在の地図には、不動坂の位置に寄席坂と書かれており、寄席坂の位置には何も書かれておらず間違いと思われます。)坂下は、首都高速環状線が上を通っている青山通りになり、市三坂に出会います。
             
  丹波谷坂 
   丹波谷坂上  丹波谷坂下  この坂の木標には、『天和年間旗本岡部丹波守の屋敷ができ、坂下を丹波谷といった。明治初年この坂を開き、谷の名から坂の名称とした。』と書かれています。坂は短い一直線ですがかなりの傾斜を持っていて、上り下りには大変難儀となる坂と思いますが、明治以降に開かれた坂と言うことで、少々残念。坂下を丹波谷と呼ぶと書かれていましたが、『江戸切絵図集成』の尾張屋版にも、近江版にも名称がなく、地形図からは丹波谷坂下、寄席坂下、長垂坂下と続く谷地があり、この辺りを丹波谷と呼んでいたと思われ、おもしろい地形となっています。。後日地形をじっくりと追いかけてみたいと考えています。






             
   不動坂     
   不動坂上  不動院正面  不動坂下
   不動坂下から続く階段坂 この坂には木標は見つけられませんでした。坂の位置としては、寄席坂から上がった坂上の道を少し行くと右側に丹波谷坂があり、さらに少し進むと丹波谷坂に並行してこの坂がありましたのでそれが「今昔 東京の坂」にある位置とおなじとみましたのでここを載せました。しかし、「港区観光マップ」にはこの坂は書かれていません。ですがこの坂の途中には写真のように不動院がありましたので正解と思われます。
坂を下りきったあたりから左の写真にあるような民家の間を細い階段坂が続いていました。











             
   市三坂(いちみさかと読む)
   市三坂  市三坂下  この坂の木標には、『明治二十年代に開かれた坂。名主の名がついた市兵衛町と松平三河守忠直邸のあった三河台町との間で両頭文字をとった。』と書かれています。この坂は現在では、ご覧の通り、首都高速3号線下の六本木通りにあり、首都の重要な道路の一部となっていています。坂自身も少し傾斜のある長い坂です。坂自身、どこからどこまでが坂なのかがよく判らなかったので、木標のある間を写真に収めました。明治時代に開かれた坂とのことで、当然、「江戸切絵図集成」にはありません。







             
  芋洗坂 (いもあらいさかと読む)
   芋洗坂上  芋洗坂中から上  芋洗坂中から下
   この坂の木標には、『正しくは麻布警察署裏へ上がる道を言ったが、六本木交差点への道が明治以後出来て、こちらをいう人が多くなった。芋問屋があったからという。』と書かれています。標示の通り、坂は六本木交差点すぐ横からゆっくりと左に曲がりながら傾斜もゆっくりと下る長い坂です。写真でご覧になってもお判りのお通り、六本木交差点の道の一本裏の通りで、この辺は飲食店が軒を連ねており、その関係の業者の車が頻繁に行き来している場所でもあります。また場所柄、お昼時になると近くの会社の人たちがこの辺の飲食店にお昼を食べに来るのか、一通りも非常に多い通りで、よい写真がなかなか撮れませんでした。
             
  饂飩坂(別名:炭団坂) 
   饂飩坂上  饂飩坂下  芋洗坂と饂飩坂の合流点
   この坂の木標には、『天明年間末(一七八八)頃まで松屋伊兵衛という、うどん屋があった、ためにうどん坂と呼ぶようになった。昔の芋洗坂とまちがうことがある。』と書かれています。坂は古い古い坂のようですが、写真をご覧の通り、坂下は芋洗坂の途中に交わり、坂上は外苑東通りに突き当たる極々短い坂道ですが、傾斜はまあまあありました。
             
  永坂(別名:長坂) 
   永坂上  永坂下  この坂の木標には、『麻布台上から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が付近に住んでいたともいうが、その確証はえられていない。』と書かれています。坂の位置としては、多くの書物が首都高速環状線下の飯倉から麻布十番方向への幹線を永坂として書かれているものがありますが、木標のある坂は、それより一本横に入った坂道で、坂下で幹線道路に交わっています。ですのでここでは、木標のある坂道を”永坂”としました。昔はこちらの道しかなかったのではと思いますが、開発されていつの間にか本当の坂道は横に押しやられていったのではと思います。坂は、直線の傾斜もある坂道で、坂下で緩やかに左に曲がって幹線道路と合流しています。





             
  於多福坂 
   於多福坂上  於多福坂中  於多福坂中
   於多福坂中  於多福坂下  この坂の木標には、『坂の傾斜が途中でいったんゆるやかになってまた下っていたので顔のまん中の低いお多福面のようだと名つけられた。』と書かれています。坂は、長い長い一本道で、木標にもあるように途中でゆるやかに下り、また上るという、薬研坂や、行合坂のような坂道となっていました(写真上中)。その先は途中で平坦な道となりましたが(写真下左)、また長い坂道になっていました。永坂と鳥居坂に挟まれた場所にある、幹線道路から外れた狭いひそやかな生活道路となっているようです。
 







             
  潮見坂 
   鳥居坂中から潮見坂上へ  潮見坂上  潮見坂下
   この坂には木標はありませんでした。坂自身も「港区観光マップ」には載っていません。しかし「今昔 東京の坂」には、於多福坂下から鳥居坂方向に行く道にこの坂の名前があります。坂は、於多福坂下から右に曲がった道(すぐに潮見坂下となっている。)にあり、かなりの傾斜を持った、しかも坂上で鍵形に曲がっていてそのまま進むと鳥居坂の途中に出ます。ここ途中の道にはシンガポール大使館の建物がありました。おもしろいことに『江戸切絵図集成』を見てみますと、今の於多福坂の位置には、”シオミサカ”と書かれています。場所的にも今の於多福坂と一致します。坂下は今と同じ状態で鍵形に曲がった道が鳥居坂へと繋がっています。現在の道筋とまったく同じです。いつのころから潮見坂が於多福坂と呼ばれるようになったのでしょうか?坂上はかなり開けていて(今は樹木でうっそうとしていますが。)その頃には海が臨めたのではないでしょうか?と想像できそうな坂道です。
             
  鳥居坂 
   鳥居坂上  鳥居坂下  この坂の木標には、『江戸時代のなかばまで、坂の東側に大名鳥居家の屋鋪があった。元禄年間(一六八八〜一七〇三)ごろ開かれた道である。』と書かれています。坂は、外苑東通りから下っている長いかなりの傾斜を持つ坂道です。坂上の右側(写真左)には、シンガポール共和国の大使館、右側は、旧岩崎邸庭園があります。この坂を下りきり、幹線道路を跨いだ先は、暗闇坂下に出ます昔ながらの道筋です。こんな傾斜を持った土地に築かれた大名屋敷は、どんな風になっていたのでしょうか?きっと傾斜を生かした流れを造ったり、風流だったのでしょう。と想像してしまうような坂道です。今は、幹線の抜け道なのでしょうか、交通量の多いしかし細い道です。





             
   牛坂(別名:牛鳴坂、ウシザカと書かれています。)
   牛坂上  牛坂下 この坂の木標には、『源経基や白金長者の伝説のある笄橋に続く古代の交通路で、牛車が往来したためと想像される。』と書かれています。坂は、大横丁坂と向かい合っていて、坂上を右に進むと笄坂に出会います。古い古い時代の坂道のようですが、かなりの急傾斜の坂で、ここを牛車が通ったのかと思いながら坂道を上って行きましたが、傾斜がきつく、牛も坂道の険しさに啼きながら登って行ったのかとその昔が偲ばれる急坂です。








 
             
  大横丁坂(笄坂、富士見坂) 
   大横丁坂上  大横丁坂中  大横丁坂下
   この坂の木標は見つかりませんでした。坂は、外苑西通りを挟んで向かい側には牛坂があります。坂下から上って行く坂道は傾斜を伴って左右にゆっくりと蛇行しながら長く長く続き、テレビ朝日や中華民国大使館のある通りに出ます(テレビ朝日通り?)。坂上に出ますと場所がら制服警察官の警備が目立ちます。坂道横には、ご覧のように低層のマンションが立ち並んでいて生活道路のようですが、外苑西通りと、テレビ朝日通りとの抜け道のようで、車がひっきりなしに通っていました。
             
   けやき坂
   けやき坂上  けやき坂中  けやき坂下
   さくら坂
   さくら坂上  さくら坂中  さくら坂下
  けやき坂、さくら坂とありますが、この辺はテレビ朝日の複合施設が建ちならび、開発されてしまっているため江戸時代の面影はまったく見られなくなってしまった場所です。このけやき坂とさくら坂も土地開発で造られた新しい坂と思われます。「今昔 東京の坂」には、「玄碩坂:テレビ朝日通り、桜田神社向いを東に下る急坂。露地の坂で狭い」とありますが、このけやき坂が櫻田神社前の道から下っている坂なので、もしかしたなら玄碩坂のなごりであるとも思われますが、しかし、坂道は広く長いまあまあの傾斜のある非常にきれいに整備された坂になっており昔の面影はまったく見いだされません。さくら坂も、このけやき坂上すぐから右に分岐していてゆっくりと左にカーブしていくなだらかな長い坂道です。『江戸切絵図集成』尾張屋版の「麻布絵図」の発行された頃の地図(昭和57年)にも”玄碩坂”がテレビ朝日複合施設の横を通っていますが、現在の道とは違っているようで、その頃にはまだかなりの道筋があったようです。江戸期の麻布之絵圖には、櫻田神社神社はなく、通りにサクラ田上丁、中丁、下丁と書かれていて、現テレビ朝日の複合施設のある辺りは、毛利甲斐守の広大な屋敷と細い道を挟んで内田豊後守のこれまた広大な屋敷が描かれています。この屋敷の間の狭い道が玄碩坂道に相当するようですが、絵図には坂道名も坂道の印”||||”もありません。屋敷の間の狭い狭い道として描かれています。またこの辺り一帯は、”日ヶ窪”と呼ばれていた窪地(谷地)でした。 
             
  内田坂     
   内田坂上  内田坂中  内田坂下
   内田坂横にあった「四時佳興」の説明  この坂の標は見つかりませんでした。が、坂途中にある城南高校の脇門横に、「四時佳興」の石碑があり、その説明に、この坂道が、「内田坂」となっていました。この城南高校の敷地は内田豊後守の屋敷があったところのようで、この坂を内田坂と呼ばれていたのではないかと想像します。坂は櫻田神社のある台地上の道から長く細い道が、途中から長くかなりの勾配で下っています。坂下は城南高校を巻くように左折していますが、すぐに右折して広い通りに出る道と、そのまままっすぐにさくら坂下に出る脇道に通じています。もしかするとこの内田坂下からとさくら坂下からの脇道がかつての玄碩坂のなごりではないでしょうか?てなことを想像しながら歩いた坂でした。また、写真上中と右を見ていただくと、この道の左側は高台になっていて、ここが崖線であったことが判ります。「今昔 東京の坂」には、港区にある『近代沿革図集』の説明に、「内田山を貫通する道・・・」とあり、内田豊後守の屋敷が丘のようになっていたと思われます。またそこを切り開いたようで、切通しのような景観であったことが陰影図からも読み取れます。のちのちこの崖線も調べていきたいと思います。
 この内田豊後守の屋敷や、隣に位置していた毛利甲斐守(現テレビ朝日の複合施設と毛利公園)のような大名屋敷は、広大な敷地を持っていました。当然広大な敷地ですので、どの大名屋敷の敷地内も凸凹地形であったと推察されます。その傾斜を巧みに利用したり、傾斜を使って川の流れを引き込んだりしてそれはそれは優雅なものであったのではと推察されます。ですので幸いであったことは、これらの大名屋敷のある場所ではあまり土地開発がなされておらず、江戸時代そのままの傾斜を保っているところが多く残っているのではないかと思います。


             
  閻魔坂     
   閻魔坂上  閻魔坂下  閻魔坂上からの景観
  外苑東通りから一本外れた、六本木通りから入っている道といい、上の3枚の写真が閻魔坂であるかどうかは判りませんが、「今昔 東京の坂」には、「崇厳寺に下る急坂・・・坂下に共同墓地がある」と書かれていて、写真右の坂上からの景観といい、この記述から推察して、ここが閻魔坂ではないかと思い写真に収めました。どなたかこの閻魔坂を知っておられたり、なにか資料がありましたなら、教えていただければと思います。引き続き調査もかけていきたいと思います。 
             
  霞坂     
   霞坂上  霞坂下 この坂の木標には、『明治初年に霞稲荷(現在の櫻田神社)から霞町の町名ができ、そこを貫通する道が明治二十年代に開かれて霞坂と呼んだ。』と書かれています。坂はご覧の通り上を首都高速3号線が走る六本木通りにあり、坂上の木標は右に、坂下の木標は左にある、大変道幅の広い坂道となっています。説明によりますと、坂は明治に入ってから作られて道のようで、『江戸切絵図集成』には、榎坂、飯倉甼、六本木町、と続き、この辺は坂道の名前も坂道の印”||||”もなく、”リウド”と書かれています。現在の道幅は非常に広く、この時代の道がどの辺にあったのかは推察もできません。





 
             
  笄坂(別名:北坂、中坂、おたつ坂:こうがいさかと読む) 
   笄坂上  笄坂下  霞坂中から笄坂を望む
  この坂の木標は見つかりませんでした。「今昔 東京の坂」によりますと、近くを流れる笄川や、笄橋の名に因む。おたつ坂と言う奇妙な別名は、むかしここにおたつという婆さんの茶屋があったのに由来する。とありました。坂はご覧の通り、坂下からの反対側は霞坂があり、薬研坂や行合坂のような向かい合った外苑西通りを谷底とする、坂になっています。笄坂下をちょっと上った辺りの下を笄川の小さな流れがあったようで、この坂が笄坂と呼ばれたのではないでしょうか?この坂も霞坂同様、道幅の大変広い六本木通りにあり、昔の面影はまったくありません。 
             
   江戸切絵図集成との比較 (江戸切絵図集成:尾張屋版との比較)
    江戸切絵図集成と比較して見ました。他の切絵図と同様に、今の道とは一致していない道がたくさんあります。が、できるだけ今の道に合わせてみることを心掛けてトレースしてみましたのがたのが上の坂と旧道(黄色で示した道)とのロールオーバー図です。無理矢理に合わせた道もありますが、今に一番近い道と思います。この辺の多くの坂道は、江戸時代から続いている道がたくさんありますが、残念ながら大規模開発地域(六本木ヒリズ、テレビ朝日、東京ミッドタウン、等々の地域は、完全に開発されてしまっていて、昔をまったく気にせずに土地を切り崩し、超高層ビルや大規模な複合施設を造ってしまっており、地域全体が昔ではなくなってしまっています。当時の道に関しても現代fではなくなってしまっていたり、付け替えられてしまっていますのでまったくわからなくなってしまっています。どうやらトレースできたのが上の3番目のロールオーバー図ですが、あやふやなところもたくさんありますので、このへんの事情をご理解いただければと思います。
 さて、実際の切絵図との比較ですが、まず、外苑東通りから鳥居坂を下って行きますと、坂下向かいには暗闇坂下(切絵図にはクラヤミサカとあります。)にでます。ここも薬研のような形の地形で鳥居坂下と暗闇坂下が谷地底になっています。その谷地底を今は都営大江戸線が走る大きな道路が通っていて幹線道路となっています。この鳥居坂下を六本木町方向に行きますと芋洗坂になります。この谷地底の道の両側には内田豊後守、毛利甲斐守、反対側には京極壱岐守、戸川家、大久保加賀守と大名屋敷が連なり上のロールオーバー図のように道もありませんでした。玄碩坂(今のけやき坂とさくら坂の近辺)と思われる道筋は、内田家と毛利家の間を細い道が通っていたようです。芋洗坂は今の位置と変わらないようですが、饂飩坂という坂道はありません。芋洗坂途中から大久保加賀守屋敷横を通って六本木町道に出るもう一本の道が描かれていますので、これが饂飩坂の道ではないでしょうか?鳥居坂と並行して永坂(長サカと書かれています。)があり、両方の坂の間にシオミサカの名前があります。この坂は、「港区観光マップ」や「今昔 東京の坂」では”於多福坂”となっています。「港区観光マップ」には描かれていませんが、「今昔 東京の坂」では、於多福坂を下りきり直角に右折したところから”潮見坂”となっています。切絵図では鳥居坂上の通りを左折し(今の港区の麻布地区総合センターのある場所)下って行く坂道といい、この於多福坂がシオミサカと呼ばれていたようです。また、外苑東通りからロシア大使館横を下って行く”狸穴坂”も今の位置と変わりないようですが、通りを一本隔てた道は、”鼠坂”となっていて、今のような植木坂との別れから鼠坂と呼ばれていたのではなく、外苑東通り(飯倉甼あたり)の坂上から”鼠坂”となっていますし、今の植木坂は名前も坂の印"|||"も描かれていません。が、そのまま進むと長サカに出られる道として描かれています。
             
       ブレイク・タイム   
  ここで麻布、六本木周辺に関する話しをいくつか紹介したいと思います。
 この辺り一帯は陰影図を見ていただくとよく判ると思いますが、多くの谷地や窪地があります。中でも昔から名前がついているものとして、日ヶ窪、我善坊谷、丹波谷、等があります。これらの谷地にはいろいろな言い伝えや伝説が残っています。ここでは麻布の”麻布七不思議”に関する昔話(むかしばなし)を載せていきたいと思います。
 麻布の七不思議 @六本木と落ち武者、A大火事を消した蝦蟇棲む池、B狸が棲む洞、C古川の狸囃子、D善福寺の逆銀杏の木、E我善坊谷に棲む化け猫、F一本松伝説です。この他にもいろいろな伝説があるようですが、ここでは今に残るを写真とともに追いかけていきたいと思います。追いかけてはみたものの、この辺の土地開発はすざましいものがあり伝説となった場所、洞、等がほとんど残っておらず以下にあるもののみが写真に収めることが出来ました。
 
             
    A 蝦蟇の池   
   麻布十番稲荷にあるかえるとその由来説明  蝦蟇伝説の由来説明  今も残る蝦蟇伝説の池
  伝説の蝦蟇の池は今も残っています。『江戸切絵図集成』には山崎主悦助の屋敷は描かれていますが、その周りには池らしい印は描かれていません。NHKの”ブラタモリ”でも紹介されましたが、この屋敷跡は今は個人の敷地となっていて蝦蟇の池もその敷地の中にあり写真上右以上には近づけませんでした。池自身もその時代の大きさとは比べ物にならないほど小さくなってしまっているとのことですが、この池の周りはかなりの傾斜があり、この蝦蟇の池がかなり落ちくぼんだ土地になっていました。池の水はどうなっているのかを竹藪越しに観察しましたところ、写真でもそれが見られると思いますが、地下水が湧いているのか、池の中で水を循環させているのか、常に波紋がたっていました。あくまでもこの池のある場所は個人の敷地内なので、その位置の詳細は避けさせていただきますが、位置的には”麻布、六本木 2”の方に位置します。陰影図を見ると現在も池とその周りが窪地になっていることが見て取れます。 
             
   D 善福寺の逆さ銀杏の木     
   善福寺の山門  逆さ銀杏の木  銀杏の木の由来説明
   境内にあった井戸  善福寺参道にある柳の井戸  柳の井戸(近撮)
  上3枚は、善福寺山門と境内にある逆さ銀杏の木の写真です。この善福寺は幕末、英国大使館が置かれたところで有名です。山門の写真を見てお気づきかもしれませんが、山門から写真を撮ろうとするとどうしても善福寺後ろにある巨大な卒塔婆みないな建物が入ってしまいます。まったく景観にあわないので、私の持っている稚拙な作画ユーティリティで極力消してみました。山門の屋根の形状が不自然だと思いますが、あの巨大な卒塔婆が私にはどうしても許し難く、消しました。台地上に建っているあの巨大な建物にお住まいの方はどんなお考えをお持ちなのでしょうか?毎日、東京タワーやスカイ・ツリーの上に住んでいるようで空しか見えず、落ち着かないのではと、余計な思いをはせたりしています。境内には井戸水を使った手水もありました。(写真下左)善福寺前には”柳の井戸”と称する湧水(いまもちょろちょろと流れ出ています。)もありました。この湧水は弘法大師時代からあった湧水のようで、説明には”今も地下から湧水が湧き出している清水”と書かれていました。都内の湧水としては貴重なものでしょう。 
             
   F 一本松伝説
   一本松と一本松坂(右)  一本松にかかわる伝説の碑  一本松にかかわる伝説もいろいろとあるようですが、この場所は複数の坂(暗闇坂、大黒坂、狸坂)の坂上が重なり合ったところから一本松坂が上っています。その一本松は、ご覧と通りに縁石で囲われていて大切にされているようですが、その囲いの中にあった石碑は雨風にさらされたためかほとんど読めない状態になっていました。何が書かれているのか興味が持たれます。碑はこのほかにもありましたが、小さな石碑で同じような状態で、何が書かれているのか読み取ることができませんでした。きっと道祖神を祀ったようなところなのでしょうか?港区等に行って、もっと詳しく調べてみたいと思います。






  以上のように、麻布十番の七不思議も、今となってはその存在を示すものが探せないような状況になってしまっています。狸が棲む洞のあると思われる場所も、マンションか何かの大きな建物が建つような工事現場となっていてどこに狸穴があったのか判りません。建設終了後は形跡すらまったくわからなくなってしまうのでしょうか? 
             
   地域開発に埋もれてしまった階段坂
   取り残され埋もれてしまった階段坂  この下先が埋もれてしまっている  埋もれ階段坂の坂上
  この地域開発に取り残されてしかも途中から埋められてしまった階段坂は、NHKの”ブラ・タモリ”でも紹介された階段坂です。さくら公園のある生活道路を一本隔てたテレビ朝日のあるさくら坂に降りていく間の細長く取り残されたように数件の民家があり、その間に挟まれた非常に細い、人ひとりがやっと通れるような階段坂があります。ここを最初に訪れたときは、坂上の道を歩いていて、”こんなところに階段がある”程度にしか思っていませんでしたが、テレビ朝日側から訪れた時に、ここが”ブラ・タモリ”で紹介された”開発に取り残され埋もれた階段坂”であると気が付きました。階段坂はご覧の通り名もなく、うっそうと樹木が生い茂り、やぶ蚊が飛んでいるような場所でした。開発前は、玄碩坂に下りていく道であったようですが、今では誰も見向きもしない、坂下は縁石(この縁石が開発の境界のようです。)で止められてしまっている場所でした。
             
     その2              
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