ここでは渋谷区の玉川上水が流れていたとことから北側に位置する幡ヶ谷方面に点在する坂と、明治神宮北側にあるいくつかの坂道を追いかけます。首都高速20号線が走る甲州街道を峰上としてその北側は傾斜を持って、南側は比較的なだらかな傾斜の尾根道が西から東へと走っているところでもあります。この東西に走る峰に沿って多くの坂道がありますが、この辺りは江戸の市外なのでしょうか昔から名前の付いている坂道が見当たりません。「江戸切絵図集成」にもこの辺は範囲外となっています。しかし甲州街道を峰上とする高台の北側に沿って神田川支流や支流が流れており、玉川上水路からも多くの支流や上水路近くから湧き出ている流れがあります。また峰上に開堀された玉川上水新水路からは幾筋もの支流が流れ出ています。一方尾根の南側(代々木・初台あたり)は甲州街道の走る峰上から幾筋かの坂道はありますがこの地域も「江戸切絵図集成」の範囲外で描かれておらず、また傾斜の多い地域でありながら坂道は少ないところです。
   
 六号坂、十号坂、やりくり坂、旭坂、弥之助坂、切通坂
             
   六号坂  標高(坂上)40m (坂下)33m (差)7m
   六号坂上  六号坂中  六号坂下
  この坂の標は見つかりませんでした。坂は幡ヶ谷駅から北へ水道道路へ出て幡ヶ谷二丁目交差点をさらに北へ進み六号通りへ出てから少し東へと進むと六号通り交差点を坂上として北へと気だって行きます。地元の方々の生活通りのようで両側には商店が並んでいて買い物をする主婦がたくさんとおっています。 
             
   十号坂  標高(坂上)40m (坂下)36m (差)4m
   十号坂上  十号坂中  十号坂下
  この坂の標は見つかりませんでした。坂は六号坂と平行した道の富士見丘学園久高前交差点から北へと下って行く坂道です。坂左側には富士見丘学園高校があるせいか下校する女子高生がたくさんとおっていました。この坂道も生活道路のようで商店がありましたが歯抜けのような状態で商店街とまでは言い切れないような状態でした。上の六号坂と同様淀橋浄水所が新設された際に和泉給水から淀橋浄水所に向かって流れに架かる橋を何号橋、何号橋名前が付けられその番号の橋付近の坂道を同じく番号を付けて呼んでいたようです。(Wikipedia等から)
             
  やりくり坂  標高(坂上)40m (坂下)30m (差)10m
   やりくり坂上  やりくり坂下  この坂の標は見つかりませんでした。坂は小田急線代々木上原駅から古賀政男記念館のある方向へ少し行った井の頭通りをひとつ南側に奥に入ったところが坂下となる短い一直線勾配のきついの坂道で。坂下付近は滑り止めのディンプルがあるコンクリート道ですが坂上はアスファルト道になります。なんで”やりくり坂”と言うような名前の坂道になったのか渋谷区が発行していた「澁谷の坂」(今はもう発行はしていません。)には「この坂のいわれは、昭和4年(1929)ころ、付近の住民が坂をつくるのに必要な費用を、やりくり算段して出し合い、また、労力を奉仕して開通させたことに由来する。以下略」と書かれています。坂上の住人達が代々木上原に出る生活道路でもあるようです。






             
   旭坂  標高(坂上)38m (坂下)30m (差)8m
   旭坂上  旭坂中  旭坂下
  この坂の標は見つかりませんでした。坂は上原銀座と銘うった商店街を有する小田急線代々木上原駅近くの商店街道路にあります。坂下は小田急線の高架をくぐって少し下ったところまで、坂中には澁谷上原郵便局があり坂上には区役所の上原出張所や区民館施設があります。少し長い坂ですが傾斜もありますが商店街となっているので人通りや業者さんの車が多く行きかっていました。この周辺の方々の主な生活道路のようです。渋谷区発行の「澁谷の坂」には「前略 上原銀座商店街としてにぎわっているが、むかしは暗くてさみしい坂道だった。中略 昭和初期にこの道が改修されたとき坂道に朝日が射すことから名づけたらしいが、坂名の表記には朝日と同義語の旭の文字をあてた。」と当時の町会長さんの語りが載せられています。 
             
   弥之助坂  標高(坂上)38m (坂下)26m (差)12m
   弥之助坂上  弥之助坂中  弥之助坂下
  この坂の標は見つかりませんでした。坂はやりくり坂、旭坂と並んだ坂下を小田急線が走る低地へと下っています。「渋谷区史」には「水道道路から小田急線代々木上原駅に下る付近を古く弥之助坂と呼んでいたが、これは享保年間の富ヶ谷の住人、池上弥之助の所有地前にあったのでこんなに呼ばれたといわれる。」とありますが、今の地図を見ますと水道道路からお小田急線代々木上原駅まではかなりの距離があり、代々木上原駅付近の坂道をこう呼んでいたのではないかと思います。また渋谷区発行の「澁谷の坂」にも同じようなことが書かれていますが坂道としては「上原1丁目の高台40番と41番との間から、小田急線の踏切に向かって下る坂道。」と書かれてあり、また「土地の人々は、この坂をシリモチ坂とも呼んでいたという。坂道が粘土質であったため、雨が降ると通行人が滑ってころび、。シリモチをつくことが多かったことから、いつとはなしに、シリモチ坂の通称となった。」とも書かれています。坂上少しの間はなだらかですが、途中から勾配がきつくなり大きく左右に曲がりながら昔は小田急線と交わるところに踏切があったようですが今は高架下をくぐります。また「澁谷の坂」には、「むかしはこの坂下に野菜などを洗う小川の水溜りがあり、坂道でころんだ人が、よくここで尻を洗っていたということである。」とも書かれています。坂下すなわち小田急線が走るところは地形的にこの辺の最低地であり何かしらの流れがあってもおかしくはない地形となっています。渋谷区発行の「渋谷区文化財マップ」にも小田急線に並んで、やりくり坂から旭坂付近を通り弥之助坂下へと流れる川筋と弥之助坂下付近でこれに合流する形で書かれている川筋があります。この付近の小田急線の走っている低地は台地上からの雨水の流れがたくさんあったようです。 
             
   切通坂  標高(坂上)30m (坂下)26m (差)4m (坂下)26m (差)4m
   切通坂下(代々木八幡横)  切通坂上  切通坂中(坂上から反対側へ下る)
   切通坂下(もう一方の坂下) この坂の標は見つかりませんでした。坂は小田急線代々木八幡駅近くにある代々木八幡宮のある高台の南側を回り込むようにして左右に曲がりながら少しの勾配を持ってゆっくりと上り、またゆっくりと反対側へと曲がりながらゆっくりと下って行く長い坂道です。坂名そのままに代々木八幡駅方向から見ると左側になる八幡宮の丘に沿ってかなりの高さに切り立った壁が坂道のある間中あります。井之頭通りと山手通りを結ぶ主道路のようであったと思われます(渋谷区発行の「澁谷の坂」にも「この坂の開通によって、代々木・幡ヶ谷・世田谷方面と、青山・上渋谷方面とが距離的に短縮された。」以下略)と書かれていますが、今はご覧のとおり昼間は人ひとり歩いていないさみしい通りです。また「渋谷の坂」には江戸時代の当時のこの坂道が書かれた地図がありその地図を見ますと土の道は今は舗装されてはいますがかなり古からほとんど変わりのない姿で今も残っている坂道のようです。当時鋤鍬でこの坂道を切リ開くのには大変な労力と経費がかかったのではないかと推察しますが、当時の人たちすざまじいエネルギーを感じます。 
渋谷区にはもうひとつ切通坂がありますが、他の資料を見ますとこちらの坂を”切通坂”とし、他方を”切通しの坂”としている書物もあります。





             
             
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