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逢坂、庾嶺坂、新坂、神楽坂、軽子坂、地蔵坂(わらだな横丁)、三年坂、弁天坂、袖摺坂、御殿坂、芥坂、相生坂、相生坂、瓢箪坂、朝日坂、
赤城坂、朧の坂、比丘尼坂、地蔵坂、渡邊坂 、滝の坂 |
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ここでは神楽坂とその周辺の坂を特集していきたいと思います。ご存知の通り神楽坂と言う地域は昔も今も特殊なところで昔も今も江戸・東京のひとつの大きな観光名所になっています。また、昔ながらの通り(小路)や路地がたくさん残されておりその道に沿って昔のままの建物も残っているようです。また裏路地的な細い入り組んだ道も多くあり昔ながらの雰囲気が味わえるところでもあります。平日、週末にかかわらず人通りの多い所でもあります。東は外堀通り(牛込見附)、北は筑土八幡町、西は矢来町、南は市谷舟河原町を範囲として歩いてみたいと思います。 |
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逢坂(おうさかと読む 別名:大坂、美男坂) |
標高(坂上)22m (坂下)8m 差14m |
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逢坂上 |
逢坂下 |
この坂の標には『昔、小野美佐吾という人が武蔵守となり、この地にきた時美しい娘と恋仲になり、のちにのちに都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で、再び逢ったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという。』と書かれています。非常にロマンティックな伝説を持つ坂ですが、坂は非常に傾斜が厳しく下っており、坂下は右にカーブしています。けっして真っ直ぐに下っていないのが昔の道という感じで、坂下には築土神社と堀兼の井があります。その昔には坂の上から濠城内がよく見渡せたのでは?と思えるくらいの台地上となっていますが、現在は建築物で全くの景観となってしまっています。
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庾嶺坂(別名:幽霊坂、若宮坂、新坂、祐念坂、唯念坂、祐元坂、行人坂 |
標高(坂上)17m (坂下)7m 差10m |
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庾嶺坂上 |
庾嶺坂下 |
この坂の標には『江戸初期この坂のあたりに多くの梅の木があったため、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名をとったと伝えられるが、他にも坂名の由来は諸説あるという(「御府内備考」)。別名「行人坂」「唯念坂」「ゆう玄坂」「幽霊坂」「若宮坂」とも呼ばれる。』と書かれています。坂は外堀通りの道を逢坂下から少し神楽坂方向に行ったところにあり、坂上からの一方通行となっているひっそりとした、坂上から途中にかけては左にカーブしながら非常な急傾斜で下っていて、坂下付近ではその傾斜もゆるんでいく坂道です。坂上と坂下に坂の標識が立っている坂上と坂下がはっきりとした坂道です。坂上には神楽坂若宮八幡神社があります。
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庾嶺坂についておもしろい事柄を見つけましたのでここに特集してみたいと思います。
新宿区歴史資料館にて入手しました古地図(牛込・四谷 ¥1,000)の庾嶺坂のある坂道を見てみますと、庾嶺坂のある坂道には”シンサカ”(上古地図の赤い線で示した部分)と書かれています。「今昔 東京の坂」や新宿区発行しているいろいろな資料には、”新坂”は若宮八幡横から光照院前を通る道が新坂とされています。また、庾嶺坂にはいろいろな別名がありますが”シンサカ”はありません。ですが「江戸切絵図集成」(尾張屋版、近江屋版とも)を見てみますと、庾嶺坂と思われる坂道には”シンサカ”と書かれています。これはどういうことなのでしょうか?気になって新宿区役所へ行ってお聞きしたり、いろいろな資料を調べてみましたところ判ったことは「御府内備考」には”行人坂・ゆう玄坂・ゆうれい坂・ゆう念坂・”の坂名は見えますが”シンサカ”の文字はありません。
ちょっとした発見です。 |
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新坂(別名:若宮坂) |
標高(坂上)28m (坂下)26m 差2m |
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新坂上 |
新坂下 |
この坂の標には『「御府内沿革図書」によると、享保十六年(一七三二)四月に諏訪安芸守の屋敷地の跡に、新しく道路が造られた。新坂は、新しく開通した坂として命名されたと伝えられている。』と書かれています。坂は神楽坂若宮八幡神社横を進んでクランク状になった道を曲がったところに坂道の標識があります。短い直線道で傾斜もなく車がやっと通れるくらいの道幅しかありません。面白い発見ですが、「今昔 東京の坂」も新宿区が発行している観光マップにも、またこの道に”新坂”の標識があるので今の時代ではこの坂道を”新坂”と呼んでいるのだと思いますが、「江戸切絵図集成」(尾張屋版、近江屋版共)を見ますと、今の”庚嶺坂”に”シンサカ”の名が見られます。切絵図には若宮八幡横から光照院裏を通り、遠藤但馬守の下屋敷の横を通る道はありますが、坂道名はありません。いつの頃から”シンサカ”が庚嶺坂となり、名も無い道が”新坂”と名がつけられてのでしょうか?面白い発見です。区役所に行って確認してみたいと思います。 |
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神楽坂 |
標高(坂上)18m (坂下6)m 差12m |
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神楽坂上と標識(右) |
神楽坂下 |
神楽坂下すぐにある神楽坂通りの標 |
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神楽坂の途中にある石柱 |
左の石柱にある広重の絵 |
左の石柱にあった広重の絵は神楽坂上から牛込御門方向を見た絵と説明されています。絵から神楽坂がかなりの急こう配であり、坂下(今の外堀通り)にいったん下ってまた牛込御門に上がっている様子は今と変わりないように思えます。
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この坂の標には『坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ったきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城神社の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。』と書かれています。坂は早稲田通り上にあり、江戸城外濠の牛込見附からの早稲田通りと外堀通りの交わるところが坂下となっていて真っ直ぐに上っていく、坂下からは緩やかな傾斜も途中からかなりの傾斜となり上がって行くのに難儀しますが、毘沙門天あたりまできますと坂も一旦平坦と感じるくらいになだらかになりまた少しうねりを感じる長い坂道です。しかし、神楽坂と言う地域名?があまりにも有名になってしまっているため”神楽坂”という坂がどこからどこまでなのかという疑問を持ち歩いていましたなら、坂下と坂上と思われるところに写真のような神楽坂の標識がありましたのでここではその範囲を神楽坂として扱いました。飯田橋駅方向から続く早稲田通りが城内から外濠を渡ったところから写真右にあるように神楽坂通りと名前が付けられて通りとなり、坂下左が神楽坂1、右は神楽坂2、3、4、5、6という住所表記になっています。神楽坂5と6の間には大久保通りとの交差点があり、新宿区の発行している”新宿観光ガイドブック”では東京メトロ東西線の神楽坂駅を過ぎてもこの道は”神楽坂通り”となっています。坂道の両側は商店・飲食店がびっしりと並んでいて(しかし軒を連ねてという景観ではない。)、観光客、サラリーマン、商店関係の人々、運送屋の車、社用車、タクシー、等で常にごった返しています。ひとつ面白いのはこの坂を利用する車は、午前中は坂上からの一方通行となり、12時過ぎると坂下からの一方通行となることです。道幅が狭いのと商店への商品の配送等で駐停車している小/中型トラックがたくさんあり、このような方法がとられたのではと感じます。「江戸切絵図集成」を見てみますと、牛込御門から”||| 神楽坂 |||”と書かれており、坂上右に”本多對馬守”の屋敷があり、その対面に”穴八幡旅?”と読める赤く塗られている色から神社関係の場所があり、標にある説明と一致します。しかし、神楽坂の由来は必ずしも神楽に由来するものではないとする方々もおられます。坂上を少し上がると善国寺毘沙門堂上から”肴町”と書かれている道筋があります(今のわらだな横丁あたり)。神楽坂周りにも”横丁”と名前の付けられた細い通りがいくつかあり、また昔ながらの路地があります、別項で特集してみたいと思います |
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軽子坂 |
標高(坂上13)m (坂下)6m 差7m |
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軽子坂上 |
軽子坂下 |
この坂の標には『この坂名は新編江戸志や新選東京名所図会などにもみられる。軽子とは軽籠持の略称である。この飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で結んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業にした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。』と書かれています。坂は坂下が外堀通りに面していて神楽坂からはひとつ北の坂道になります。まっすぐな坂道で傾斜もきつくはありませんが、坂下の傾斜に比べ、坂上の方が傾斜がきつくなっています。神楽坂の繁華とはまったく趣を異にしたオフィス街の様子で、観光客もこっちにはほとんど来ないようです。「江戸切絵図集成」にも、牛込御門外から上がって行く神楽坂の北に”||| 軽子サカ”と坂道があります。その外堀に面したところに”揚場町”という町名がみえ、標にいう船着場がありここで荷揚げが行われていたのでしょう。今もその名残か”揚場町”の名がみえ、今の町名の残る地域と変わりないようです。今はまったくその面影はなくまわりはオフィス街です。坂道を通る人たちもサラリーマンばかりです。 |
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地蔵坂(藁坂) |
標高(坂上)24m (坂下)15m 差9m |
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地蔵坂上 |
地蔵坂中の曲がり |
地蔵坂下 |
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この坂の標には『この坂の上に光照寺がああり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それに因んで地蔵坂と呼ばれた。また、藁を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。』と書かています。坂は神楽さkを上って行き善国寺毘沙門堂を過ぎてすぐに左に入る坂道があり、坂下からすこしくねっていて坂中では大きく左に曲がっています。坂下からはゆったりとした傾斜ですが、坂中のカーブあたりから傾斜がきつくなり坂上でまたゆったりとした坂道になります。「江戸切絵図集成」でも善国寺上に左に入り、光照寺前を通る道がありますが、坂名も坂の印”|||”もありません。またその道には”〇藁店(わらだな)ト云”と書かれており標識の通りであることが判ります。坂上の光照寺の敷地は昔はもっと広く江戸期以前には牛込氏の居城があったと書かれている説明板が門前にありました。また新宿区の発行している”新宿歩 神楽坂”にはこの坂道が”地蔵坂(わらだな横丁)”と書かれています。これも標識の通り、藁店があったからなのでしょうか、でもいつごろから呼ばれている横丁名なのでしょうか?区役所に行って確認です。 |
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三年坂(別名:三念坂) |
標高(坂上)13m (坂下)9m 差4m |
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三年坂上 |
三年坂下 |
この坂の標は見つかりませんでした。坂は神楽坂上付近にある本多通りの先と軽子坂上の交差点を坂上とする傾斜もない直線道にあり、そのまま行きますと坂下は大久保通りに出ます。大久保通り向かいには築土明神があります。「江戸切絵図集成」では神楽坂上の本多對馬守の屋敷西側から軽子坂を通り築土明神へ行く道がありますが、坂名も坂の印”|||”もありません。近江屋版のこの道には”津久戸前丁”と書かれています。現在でも築土八幡神社東向かいは”津久戸町”となっています。また、津久戸町の大久保通りを隔てた向かい側には”津久戸小学校”があります。この辺の住所表記は昔のままなのでしょうか?津久戸とはどんな意味があるのでしょうか?調べてみるのも面白そうです。
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弁天坂(別名:芥坂) |
標高(坂上)21m (坂下)19m 差2m |
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弁天坂上 |
弁天坂下 |
この坂の標には『坂名は、坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の「新選東京図会」には、南蔵院門前にあまざけやおでんを売る屋台が立ち、人通りも多い様子がか描かれている。坂上近くの横寺町四十七番地には尾崎紅葉が、明治二十四年から三十六年十月病没するまで住んでいた。門弟泉鏡花、小栗風葉らが玄関番として住み、のちに弟子たちは庭つづきの箪笥町に家を借り、これを詩星堂または紅葉塾と称した。』と銅版の標識に書かれています。銅版の標識は経年劣化もありとても読みにくくはなっていましたが何とか読み取ることができました。坂は大久保通りの都営大江戸線 牛込神楽坂駅の真上に位置し極々なだらかな傾斜の坂道です。坂下の交差点すぐ下には袖摺坂があります。
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袖摺坂(別名:南部坂、乞食坂) |
標高(坂上)22m (坂下)18m 差4m |
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袖摺坂上 |
袖摺坂下 |
この坂の標には『俗に、袖摺坂と呼ばれ、両側が高台と垣根の狭い坂道で、すれ違う人が、お互いの袖を摺り合したという(「御府内備考」)』と簡単に書かれています。坂は坂下を大久保通りに面した急な短い両側を石垣と黒塀に挟まれた、記述の通り坂ですれ違うのに苦労するほど狭い階段坂です。大久保通りとひとつ北西側の朝日坂のある通りとを結ぶ道のようで、切絵図にも周りにある寺々の位置からしてここがと思う道に坂名は書かれていませんが、坂の印”|||”が書かれています。この大久保通りに道に沿って”御箪笥町”と言う町人町があり、今もこの辺りは箪笥町の町名が残っています。「今昔 東京の坂」にはこの坂を”弁天坂”とし、袖摺坂の反対側の大きくカーブしている坂道を”袖摺坂”としているが、新宿区の資料や標識から、この階段坂が”袖摺坂”で、弁天坂は大久保通り上にあり、大きくカーブしている坂は近年に整備された無名坂であると思います(弁天坂の記述はあっています。)。
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御殿坂 |
標高(坂上)14m (坂下)9m 差5m |
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御殿坂上 |
御殿坂下 |
この坂の標には『江戸時代、築土八幡神社の西側は御殿山と呼ばれ(「御府内備考」)、寛永の頃(一六ニ四~四四)、三代将軍家光が鷹狩の際に仮御殿を設けたという(「江戸名所図会」)。坂名は御殿山にちなむ(「新選東京名所図会」)。』と書かれています。坂は、大久保通りに面する築土八幡神社からひとつ牛込消防署方面に行ったところにあり、周囲を見ますと切り通しのようになっています。坂の西側が御殿山と呼ばれていたように高台となっているのが判ります。坂下からゆっくりとカーブしながら築土八幡の裏手を通って坂上反対側は芥坂の坂道となるすこし傾斜のきつい坂道です。陰影図を見ていただくとよく判ると思いますが、半島状に延びた台地の先端がこの御殿坂と芥坂で切り開かれ、築土八幡のある高台を隔てています。切絵図の近江屋版には”ゴミサカ”はありますが、御殿坂のある道には”△”の印があり、坂道であることが判ります。築土八幡前の道も”△”の印があり、この築土八幡が島状の高台であることが判ります。 |
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芥坂(別名:埃坂) |
標高(坂上)14m (坂下)7m 差7m |
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芥坂上 |
芥坂下 |
この坂の標は見つかりませんでした。坂は御殿坂上、築土八幡の角から反対側へ下っていく坂上が少し広くなっていて車は坂下から上ってくる一方通行の坂道で坂上近くの傾斜に比べ坂下はごく緩やかな平坦に近い坂となっている短い直線坂です。「今昔 東京の坂」には「美しい坂である。裏通りで、人通りはまったくない。」と書かれていますが、訪れた時も人通りはありませんでしたが、その時代と違って両側にはマンションが建ち並んでいて、坂道の美しさは失われてしまっていて、生活道路そのものと言った坂道となっていました。
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相生坂(別名:鼓坂) |
標高(坂上18)m (坂下)10m 差8m |
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相生坂上 |
相生坂下 |
この坂の標には『坂名の由来について、二つの坂道が並んでいるから(「江戸砂子」)、小日向の新坂と向かいあっているから(「御府内備考」)などの説がある。』と簡単に書かれています。坂は芥坂下と同じ道に相生坂下も面していて、白銀町から東五軒町へ下っていくくだっていく真っ直ぐな坂道で坂上は少し傾斜がありますが、坂下に来るにつれて傾斜がなくなり坂下はほとんど平坦になっています。もう一本西側に並行して坂道があり、同様の名前が付いています。切絵図の近江屋版には坂道名はありませんが、並行した道に”△”の印があります。この辺の道は切絵図の書かれた頃と変わりなく存在しているようです。
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相生坂 |
標高(坂上)19m (坂下)10m 差9m |
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相生坂上 |
相生坂下 |
こちらがもう一方の相生坂です。坂の標識はありません。坂は標識のついた相生坂から西側ひとつ隔てた道にあり、こちらの坂道の方が傾斜がきつく感じられました。標識のある相生坂が坂下で行き止まりになっているのに、対してこちらの坂の方が神楽坂のある早稲田通りからほぼ真っ直ぐに東五軒町を通り神田川(江戸川)に出られます。切絵図には、こちらの坂の下ったところに神田川まで続く”小日向馬場”と書かれている馬場があります。
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瓢箪坂 |
標高(坂上)18m (坂下)12m 差6m |
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瓢箪坂上 |
瓢箪坂下 |
この坂の標には『坂の途中がくびれているため、その形から瓢箪坂と呼ばれるようになったのであろう。』と簡単に書かれています。坂は白銀公園角から急傾斜で下っていて坂下は緩やかになり右にカーブして大久保通りと早稲田通りの交差点近くに出る狭い傾斜の厳しい坂道です。坂上が少し広くなっていますが、標識にあるような、坂途中の瓢箪のようなくびれは感じられませんでした。切絵図では、現在の白銀公園はの敷地は中山備後守の屋敷跡のようで屋敷角には番所があり、瓢箪坂に下る道しかなく現在も残る安養寺(安羪寺)前を通り神楽坂のある道に出ます。神楽坂に出る道に”△”の印があり、今の瓢箪坂の標識のある場所とは同じ道筋ですが位置が違っています。辻番所からのひとつの流れとして考えると瓢箪坂は現在のような短い坂ではなく辻番所から神楽坂のある道までの長さの坂道と考えられます。
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朝日坂(別名:旭坂、五条坂) |
標高(坂上)22m (坂下)19m 差3m |
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朝日坂上 |
朝日坂下 |
この坂の標には『「御府内備考」には、かつて泉蔵院という寺があり、その境内に朝日天満宮があったためこの名がちういたとある。明治初年、このあたりは牛込朝日町と呼ばれた(「東京府史科」)』と書かれています。坂は早稲田通りにあり、神楽坂(六)と横寺町の間を牛込中央通り方向に上って行く傾斜をほとんど感じないくらいのごくなだらかな坂道です。切絵図を見ますと神楽坂を上がった横道に今も残る正蔵院が泉蔵寺と並んで位置摺る道があり、まっすぐ進むと袖摺坂上に出ますので、これが朝日坂のある道と思われますが、その道には”ヨオ寺町”とあり、坂名も坂の印”|||”もありません。
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赤城坂(別名:飛地坂) |
標高(坂上)24m (坂下)16m 差8m |
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赤城坂上 |
赤城坂中のカーブ |
赤城坂下 |
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この坂の標には『赤城神社のそばにあるのでこの名がある。「新選東京名所圖絵」によれば、「・・・峻悪にして車通ずべからず・・・」とあり、かなりきつい坂だった当時の様子がしのばれる。』と架かれています。坂は早稲田通りからひとつ入った赤城神社前の道を左に折れたところが坂上となっていて途中に写真中のようにS字カーブして下っていく傾斜のかなりきつい坂道です。昔は車も通れないほどのきつい傾斜の坂道だったようですが、今もその面影は少し残っています。切絵図を見てみますと、尾張屋版には何も書かれていませんが、近江屋版には赤城明神前の道が右折し、そこから坂名はありませんが、坂の印”△|||”が、今のようにS字となって書かれています。淀橋台地の先端、牛込の高台から神田川のある低地へ下っていく傾斜のきつい坂道です。 |
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朧の坂(別名:比丘尼坂) |
標高(坂上)22m (坂下)18m 差4m |
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朧の坂上 |
朧の坂下 |
この坂の標は見つかりませんでした。坂は早稲田通り下を通る東京メトロ東西線の神楽坂駅・天神町側の改札を出てすぐに早稲田通りから天神町側へ下っている直線の坂道があります。こんな道が?と思いなが半信半疑で何人かに尋ねてみましたがご存じなく、通りかかったこの近辺の顔役の方らし方が、”この坂道が朧の坂だ。”と教えてくれました。何の特徴もない建物に挟まれた坂下の道は夜の繁華街が並ぶ傾斜の緩い短い直線道でこんな坂道が?と思い「今昔 東京の坂」を調べてみますと「このあたりに比丘尼がすんでいたという。坂下に標柱がある。しかしほんとうは、尼僧にあらずして、比丘尼スタイルの私娼がいたのでは、そんなイメージがふさわしい。」とあり、現在の様子といい”そのようでは”と思わせる坂道です。坂下にあるという標柱ですが見つかりませんでした。開発で撤去されてしまったのでは?と思います。再度確認に行きたいと思います。
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ここでひとつの疑問:
「今昔 東京の坂」には、朧の坂が別名:比丘尼坂としていますが、他のいくつかの資料や本には朧の坂下を地蔵坂の方向に進み路地2つ目にある天神町へ下るなだらかな坂道を比丘尼坂としているものもありましたので行ってみました(新宿区の発行している資料には載っていません。)。以下の写真が比丘尼坂とする坂道の写真です。発見です!何でこの坂を比丘尼坂としたかが判りました。なんと東京メトロ東西線・神楽坂駅の天神町側の地下への入口に、その周辺の地図が掲示されていました。その地域図にある路地的な小さな道に”比丘尼坂”と書かれていました。もしかしななら製作時のミスかもしれませんが載せてみました。新宿区役所で確認です(この地域地図には朧の坂は道はありますが坂名は書かれていません。)。 |
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比丘尼坂 |
標高(坂上15)m (坂下)13m 差2m |
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比丘尼坂上 |
比丘尼坂下 |
比丘尼坂が掲示されている地域図板 |
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この坂の標は見つかりませんでした。坂は東京メトロ東西線の神楽坂駅・天神町側の出口からすぐの朧の坂を下り、路地2つ目に早稲田通りから入ってきた道が小さくクランクした先の道が比丘尼坂です。坂は非常になだらかで坂上に立つとわずかに傾斜しているのが判るくらい緩やかに下っています。他の書物には早稲田通りから入った道を比丘尼坂としてあるのもがありますが、ここでは東京メトロ東西線神楽坂駅入口にあった地域図にある範囲を”比丘尼坂”としました。上の写真の右側の地域図の比丘尼坂が表示されている部分を載せてみました。坂道としては何ともない地域住民の行きかう細い路地にあるごくごく緩やかな坂道です。 |
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地蔵坂(別名:三年坂) |
標高(坂上)18m (坂下)12m 差6m |
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地蔵坂上 |
地蔵坂下 |
地蔵坂中から渡邊坂を望む |
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この坂の標には『江戸時代後期、小浜藩酒井家下屋敷(現在の矢来町)の脇から天神町への坂を地蔵坂と呼んでいた(「砂子の残月)」。坂名の由来はさだかではないが、おそらく近辺に地蔵尊があったものと思われる。』と書かれています。坂は早稲田通りを神楽坂駅方向から歩き、牛込天神町の信号で江戸川橋通りにカーブしながら急に下っていく坂道です。坂上の傾斜は少しありますが坂下はその傾斜もゆるくなってゆっくりと渡邊坂下に至ります。「今昔 東京の坂」の文章に「明治は暗く、そして、泥ンこであった。」とありますが、今ではまったく想像のつかないご覧のとおりりっぱな大通りとなっていています。 |
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渡邊坂 |
標高(坂上)11m (坂下)8m 差3m |
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渡邊坂上 |
渡邊坂下 |
この坂の標には『江戸時代、坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があったのでこう呼ばれた。源蔵は五百石取りの御書院番で、寛文七年(一六六七)に市谷鷹匠町の屋敷と引きかえにこの屋敷を拝領し、渡邊家は幕末までこの地にあった。』と書かれています。坂は極々なだらかな車で走っているとその傾斜も感じられないような坂道で、下りながらカーブしてくる地蔵坂の下りきったところからさらに江戸川橋通りをゆるやかに地下鉄有楽町線の江戸川橋駅に下って行きます。同じ道路上にある地蔵坂もこの渡邊坂もりっぱに大きく整備されてしまっているため当時を想像もつかない坂道となっています。切絵図では今の早稲田通りの道はこの地蔵坂で渡邊坂に曲がる道しかなく、坂下には”渡邊源蔵”の大きな屋敷地があります。が、坂名はなく、”△”印があるのは近江屋版のみです。
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滝の坂 |
標高(坂上)15m (坂下)12m 差3m |
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滝の坂上 |
滝の坂下 |
この坂の標は見つかりませんでした。坂は地蔵坂(上記)を右にカーブしながら下っている早稲田通りを弁天町交差点のひとつ手前を矢来町側に入る細い路地的な、今も残る大願寺と言うお寺の前を通る坂道ですが、傾斜もほとんどなく表通りからごくゆるやかな下りを持った裏道と言ったような坂道です。切絵図にも大願寺前を通る道はありますが、坂名も、坂の印”|||”もありません。
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