ここでは駒込駅の周辺に位置します5つの坂道を追跡していきます。 
             
   妙義坂、染井坂、有松坂、木戸坂、下瀬坂(坂の大部分は北区に属しますが「豊島区の坂」に載っていましたのでここでも取り上げてみました。) 
   
   駒込地域のその他の坂として豊島区発行の「豊島の坂」には載っていませんでしたが有松坂のひとつ駒込駅側の細い道にあった染井稲荷横の坂道が気になりましたので取り上げてみました。また木戸坂を探すために歩いていました時にとても気になった地域(JR山手線、本郷通りと不忍通りに囲まれた北区との区境あたり、住所的には駒込一丁目にあたる区域に駒込台地から谷戸川の流れていた低地へと下っている崖線沿いにいくつもの無名の坂や階段坂がありました。これらの無名の坂がいつごろからあるのかは判りませんが、とても興味の湧く地域でしたのでこの項の最後に無名坂としていくつかを取り上げてみました。 
             
   妙義坂  標高(坂上)24m (坂下)16m (差)8m
   妙義坂上  妙義坂中の曲がり  妙義坂下
   妙義坂上にある碑  この坂の碑には『坂の西方駒込三丁目にある妙義神社が坂名の由来であり「大日本名所図会」に「妙義神社は駒込妙義坂下にあり、道路の西に、「これよりみょうぎみち、やしろまで半丁」と記せし石標建つ。(中略)当社の祭神は大和武尊にして、左に高産霊神、右に神功皇后、応仁天皇を奉祀す。社伝に「大和武尊東征の際此地その陣営となりたれば後に一社を建て白鳥社と号す」」と記されている。』と書かれています。坂はJR駒込駅改札を出たところに銅で造られたりっぱな坂標があり、そこが坂上と思われます。昔の日光御成道であり、今は本郷通りとなっていて非常に交通の激しい広い大きな主要道路となっています。この坂の途中には”妙義神社参道近道入口”と書かれた木標があり、ビルの谷間の細い道を入って行き坂を下ると妙義神社前に出ることができます。また坂下の西側には”霜降銀座商店街”と”染井銀座商店街”がある細い横道があります。「江戸切絵図集成」の近江屋版には坂名は書かれていませんが、道の両側に”駒込妙義坂下町”と書かれています。坂下には藍染川が流れていて、さらに進むと北区に入り”大炊助坂”と書かれた主要な道であったことが判ります。豊島区発行の「豊島の坂」には”この坂のあり道は江戸五街道以上に重要な街道であった日光御成道(旧岩槻街道)も通過していた。江戸から御成道を来て、駒込の地域を最後に下る道が妙義坂で、坂の西側に妙義大権現という神社があって坂名のもとになった。”とあります。この近くには染井吉野で有名な染井吉野桜の発祥の地があり、その地は小さな公園となって碑が建てられています。上の地形図をご覧になってもお判りのように台地上には”染井通り”が通っていて突き当りには染井霊園があります。染井通りのある台地下の低地には”霜降銀座商店街”、”染井銀座商店街”のある道がある地形的に非常に興味の湧く地域でもあります。その他にも染井通りにはいろいろな旧跡がありますのでのちのち紹介していきたいと思います。
             
   染井坂  標高(坂上)24m (坂下)16m (差)8m
   染井坂上  左の白い塀に”染井坂”の銘が埋め込まれています  染井坂下
   この坂の標は坂上の白い壁の中ほどに”染井坂”と書かれた銘板が埋め込まれています。が、坂の説明はありません。坂は駒込駅から妙義坂を下って西側にある細い道の霜降銀座商店街の中ほどにある駒込小学校脇を入る細い坂道が”染井坂”となっていて坂上で染井通りに出ます。坂上、坂下ともあまり傾斜もありませんが、坂中は小々傾斜のある細い長い坂道です。「豊島の坂」では”昔、現在の霊園の北側辺りに「染井」と呼ばれた名泉があって、地名の元となったといわれている。そして染井の台地から(今の駒込小学校西側前を)北に下る坂に染井坂という名前が付いた。”と書かれています。染井通りには江戸時代植木屋がたくさん住んでいたようで、「江戸切絵図集成」にも現染井通り沿いに”此辺染井村植木屋夛し”と書かれていてます。きっと桜の木の職人もたくさん住んでいたのでしょう。しかしながら今は道の両側は全くの住宅となっています。坂上の染井通りと交わる角に”大師道”と彫られた石柱がありますが、染井坂を下る西福寺への道を示しているそうで、「豊島区の坂」にそう書かれています。また染井通りは”江戸時代にはこの辺は菊で有名だったそうで、江戸の市中からたくさんの見物人が来たらしい。幕末に売り出された「染井吉野」が爆発的に広まって、染井の名は一躍全国区になった。”とあります。桜の咲くころにもう一度訪ねてみたいと思います。
             
   有松坂  標高(坂上)25m (坂下)17m (差)8m
   有松坂上  有松坂中  有松坂下
   この坂の標は見つかりませんでした。「今昔 東京の坂」には掲載はなく、「豊島区の坂」にはありましたので探しに行きました。坂は染井通りを染井霊園に向かって進んだ霊園入口すぐ手前右側にある下からの一方通行の細い道にあります。坂上と坂下は傾斜もありませんが、坂中は少し傾斜のかかった細い長い坂道です。「豊島の坂」には”昔からあった坂”と書かれていますがいつごろからかは判りませんでした。どなたかご近所の方がおられたならと少しうろつきましたがご覧のとおり昼間は人の気配もないさみしい坂道です。
             
   無名の坂(染井稲荷横の細い道にある。)  標高(坂上)25m (坂下)17m (差)8m
   染井稲荷横の無名坂上  染井稲荷横の無名坂中  染井稲荷横の無名坂下
   この無名の坂を取り上げたのは、ひとつにはその坂の古さ(両側の建物の土台や塀の古さ)ともうひとつには染井稲荷神社の横に上がっている坂という理由です。いつの時代からあるのかは不明ですが坂中はかなりの傾斜を持っていて、その昔は谷戸川の流れていた低地から染井稲荷へ上ってくる稲荷参りの道ではなかったかと思われます。今はこの坂道を行きかう人もない裏寂しい坂道で「江戸切絵図集成」にも、この辺り一帯は植木屋さんがたくさんいて道も書かれていません。明治以降に出来た坂道でしょうか? 
             
           染井通りにある旧跡  
   染井通りは駒込駅南の六義園角から染井霊園へのあまり広くない直線の道路です。地形図を見てみますとこの染井通りは台地の上を通ていてそこから北側の台地下へ向かって何本かの坂道があります。染井通りはその名の通り”染井吉野桜”で有名な地域で桜の咲くころには大変な賑わいとなる通りですがまた旧跡も多く残っています。それらの旧跡のいくつかを載せてみました。
         
   染井通り染井坂角にあった道標        
   道標のある染井通り角(染井坂側から見た石柱)  道標(大師道と彫られている)  この道標は染井通りを駒込駅方向から染井霊園に向かって歩いていくと途中にある馬込小学校へと下る染井坂のある道との角にあります。道標は半分住宅の塀にめり込んでいて道標の横側や裏側に何か彫られていたかは見ることができません。どうしてこんな風に残されているのでしょうか?「豊島区文化財マップ」にも”西福寺への道標であった。現在ブロック塀に埋め込まれている。”と書かれており、わざわざブロック塀に埋め込んでしまったことを書き記している。







       
   染井坂上にある庚申塔         
   染井坂上を少し染井通り方向に進んだ十字路に染井吉野に関する展示がりっぱな門構えの中央にあります。庚申塔はその向かって右端の建造物の横にあります。「豊島区文化財マップ」には、「1672(寛文12)年造立。区内で唯一の二猿像。」と書かれていますが経年劣化のためか?二猿像はあまりよく確認できませんでした。










   
       
   染井霊園すぐの有松坂横にある十二地蔵       
   左染井霊園への道と有松坂(右)の間にある十二地蔵  細い三角地に尊座している十二地蔵  この十二地蔵がある場所は、染井通りが染井霊園に突き当たる少し手前、有松坂上との分かれ道角にあります。「豊島区の文化財マップ」には「江戸時代中期の建立といわれ、大火の供養碑とする説がある。上下に六体ずつの地蔵が彫られている。」とありますが、他に説明もなく詳細は判りません。











             
   妙義神社境内にある庚申塔       
   妙義神社境内にある庚申塔は神社本殿右横の小さな稲荷の横にあり、その前には説明板が建っています。「豊島区文化財マップ」には妙義神社の項に「1642(寛文12)年の庚申塔がある。」とだけ書かれています。その説明には「末社稲荷庚申・寛永寛文庚申ノ碑ニアリ。是ヲ神体トス」とありて江戸時代には稲荷として祀られていたことがわかる。昭和四十年(一九六五)神社復興工事の際、境内土中より発掘された・・・・」と書かれています。庚申塔の表面は経年劣化のため何が書かれているのかは判りませんでした。





 妙義神社境内にある庚申塔と説明  庚申塔
   染井通りにはその他にも”染井よしの桜の公園”、”旧丹波家の蔵と門”、”染井植木の里”、等があります。 
                          
   木戸坂  標高(坂上)20m (坂下)13m (差)7m
   木戸坂上  木戸坂中  木戸坂下
   この坂の標は見つかりませんでした。坂はJR山手線、本郷通りと不忍通りに囲まれた駒込一丁目の駒込東公園を坂上とする横の道にあります。訪れた時は坂上のカーブのところで丁度建築工事があり良い写真が撮れませんでした。坂はS字に蛇行して下っており傾斜もある滑り止めのあるコンクリート道です。坂の名前はこの近辺に明治維新の際に活躍した”木戸孝充”の別邸があったそうで、「豊島区文化財マップ」にも木戸孝充別邸跡が記されていますが、行ってみますとその辺には大きなマンションが複数建っておりどの辺にあったかははっきりとわかりませんでしたが、あるマンションの前に”鹿碑・瘞賜猪碑”と言う碑があり、このマンションのある辺りが旧御家人の屋敷であったのを後に木戸孝充が住んだと説明されていますので、木戸孝充の屋敷はこのマンションあたりにあったと思われますが、今はまったくその面影はありません。”鹿碑・瘞賜猪碑”の碑のあるマンションの裏側の道隅にわずかに”明治天皇行幸所木戸菖邸”と書かれた石碑があるだけです。この辺は木戸坂下を通る道が北区との区境にあたり駒込台地上から下っている坂道や階段坂が多くあり、崖線マニアとしてはとても興味をある地形となっています。  
       
   下瀬坂  標高(坂上)20m (坂下)13m (差)7m
   下瀬坂上  下瀬坂中のカーブ  下瀬坂下(この辺までが豊島区)
   この坂の標には『この坂名は、明治三十二年(一八九九)、ここに設けられた「海軍下瀬火器製造所」に由来します。戦前に製造所は舞鶴(京都府)へ移転し、跡地は東京外語大のキャンパスとなりました(現在は移転)。このあたりは、江戸時代に幕府の御薬園があり、谷田川の水源となる湧水もありました。』と書かれています。坂はそのほとんどが北区にあり坂下の平坦になるあたりからが豊島区に入ります。「今昔 東京の坂」には北区に分類されています。しかしながら豊島区発行の「豊島の坂」に載っていたので行ってみました。坂は巣鴨五丁目外れからカーブ下で北区に入り都電西ヶ原四丁目駅に向かって大きく右にカーブしながら上がって行くから道一車線ですがきれいに整備された坂道で、ゆっくりとした傾斜で上がって行きます。坂上右側にはかつての東京外語大跡の碑がある”西ヶ原みんなの公園”があります。坂下から坂上右側はかつての西ヶ原の広大な原っぱであったようですが今はマンション群が建ち並んでいる一大居住空間となってています。「豊島の坂」には「巣鴨五丁目と北区西ヶ原四丁目の境の道を、外語大の敷地の右側にまい巻きながら西北方に上がる坂で、外語大の敷地が、旧海軍の下瀬火薬製造所だったので、この坂が”下瀬坂”と呼ばれるようになった。」とあります。「今昔 東京の坂」に載っているこの坂の説明には、旧外語大の敷地一帯は「『江戸切絵図集成』(尾張屋版)は、御薬園 渋江長斎庵御預地所 メンヤウヤシキト云」と記し、薬園西側は巣鴨村の畑地である。」と書かれており、「江戸切絵図集成」を見てみますとその通りに書かれていて、その南西は”巣鴨村”とあり、北側は”此辺西箇原村”とあり、この両村の間には道もなく緑色(山林、原植溜等)一色でこの時代にはまだ原野が広がっていたのではと思われます。巣鴨村の南側と白山通り(中山道)との間は”畑”とあり、一帯に畑が広がっています。
       
                          
   木戸坂周辺の無名坂
   木戸坂周辺は駒込の台地上から谷戸川に向かって下っている坂や階段坂がたくさんありますがそれらはみな名前のない坂道です。また木戸坂下の道は北区や文京区との区境にあり崖線下の低地を縫うように走っているとても興味の湧く地域・地形です。少しこの辺の無名の坂や階段坂を追いかけてみました。 
   
             
   階段坂①(駒込日枝神社横)  標高(坂上)22m (坂下)14m (差)8m
   日枝神社横の階段坂上  日枝神社横の階段坂中  日枝神社横の階段坂下(お祭りの準備中)
   この無名坂は駒込駅からすぐにある日枝神社横が階段坂上となっていて日枝神社のある台地を巻くように急こう配で下っています。坂下途中までは階段ではなく傾斜も少ない坂道ですが途中から階段となり勾配もかなり急傾斜となっています。台地下から来る人たちの参拝のための参道のようなものなのでしょうか?日枝神社の方にお聞きしようと思ってうろついたのですが、全く人に出くわしませんでした。また訪れてみて聞き込みをしたいと思います。 
                        
   駒込日枝神社の特徴: 
   9月12日(金)に再び訪れてみました。週末の土日が日枝神社のお祭りとのことで準備をしている方々がいましたので声をかけてみました。その方から駒込一丁目の町会長さんが来ているとのことで紹介されました。町会長さんから話をいろいろとお聞きし、”日枝神社は旧名”朝日山王”といわれもっと広い敷地を持っていたが、戦争の空爆で一帯が焼け復興の時に今の状態になった。以前は朝日山王と呼ばれていて、神社から見えた日の出が大変きれいだった。神社は大変古く慶長十五年以前に祀られた。ここのお狐さんは特徴があり鋭い目をしている。この日枝神社は千代田区山王にある日枝神社の分社ですが、神社の印に特徴があり日枝神社の印の周りに朝日があるが、ここから見る朝日がとてもきれいだったので、山王の本社から許可をもらって日枝神社の印の周りに朝日を加えた。と話されていました。その際。大変ご親切に日枝神社の縁起や木戸屋敷別邸跡のことがワープロされた4ペイジの小冊子をいただきました。同じく日枝神社横の階段坂についてもお聞きしたのですが、”かなり古いがいつ頃からあるのかはわからない。”と話されていました。失礼とは思いましたが下に載せた坂下で二股になっている無名な坂道についてもお聞きしたのですがこちらも”いつごろからあるのか?なぜ二股に分かれているのかわからない。 ”とのことでした。二股坂(勝手に呼んでいます。)の謎が深まるばかりです。またこの境内には”日吉稲荷神社”があり稲荷を守護しているお狐様はみな目が鋭いとの特徴があることや、日吉稲荷の手前横には”明和二年の銘がある手水鉢がある。”とも聞かされその手水鉢を案内してくれました。その手水鉢の裏にははっきりとは読めませんが「明和二年酉」と刻まれた文字がやっと識別できるくらいに残っていました。この手水鉢の同じ裏面の反対側にもなにか文字が刻まれていますが、薄れてしまって判読できませんでした。
 この駒込日枝神社のある高台は東向きに開けていて、その昔眼前の建物が何もない時代に登ってくる朝日の眺めはとても素晴らしかったのではと想像できますが、残念ながら、現在は建物に遮られていて足は全く望めません。
   日枝神社本殿  駒込日枝神社の印(神社の印の周りに朝日)        
      「右朝日山王宮」と刻まれている
        
   境内に雷に打たれ幹が裂けた銀杏の木があります
 明和二年(一七六五)の銘がある手水鉢  手水鉢の裏「明和二年酉」と読める
   上の3枚の写真は日枝神社本殿とその屋根にある駒込日枝神社の特徴的な社印と鳥居横にある「右朝日山王宮」と書かれた石碑と左の2枚の写真は境内の日吉稲荷神社のある手前にある手水鉢で、その裏には”明和二年酉”と読める刻みがある。また境内左には雷に打たれ幹が裂かれても生き続ける銀杏の木があります(町会長さんのお話)。 
   右の2枚の写真は日枝神社境内左奥にある”日吉稲荷神社”です。鳥居の横に明和二年と刻まれた手水鉢が見えますが、この日吉稲荷の特徴はお狐様の目が他の稲荷のお狐様に比べて目が鋭い。と町会長さんから教えていただきました。








 日枝神社境内にある日吉稲荷神社  日吉稲荷神社のお狐様、目が鋭い
   以上いろいろなお話を元に書きましたストーリーは町会長さんのお話を元に要約して書いたもので、各写真はそれを元に撮ったものです。     
             
   坂下で二股に分かれている坂(駒込東公園横)  標高(坂上)22m (坂下)14m (差)8m
   坂下が二股に分かれている無名坂の坂上(左階段坂)  坂中から見た二股の別れ  二股に分かれた坂には歩行者用の階段がある
   二股に分かれた坂上(右)と階段坂上への道(左)  坂下で二股になっている坂横の階段上  二股坂上横の駒込東公園入口
   この無名坂は日枝神社の階段坂下の道を東方向に進んだところがこの二股に分かれた坂の坂下となっています。坂は滑り止めのディンプルがある真っ直ぐなコンクリート坂ですが坂下でなぜか二股に分かれています。坂上からの一方通行となっていてしかも坂下では左側にしか車は進めません(道路標識で右側は進入禁止となっている。)。ますます不思議な無名坂です。坂下の二股の中には木が生い茂っていて(写真上中)、なんで二股に分かれているのかとても不思議に思います。近所の方にお聞きしようかと思ったのですが、訪れた時間が平日の午後で人ひとり歩いていない状況でした。また訪れて確認したい大変興味の湧く坂道です。
 この坂道を Google Map や他の地図で見てみたのですが大変不思議なのですが、この坂道は坂上からの一方通行道で坂下では二股に分かれた左側、つまり坂下で左折しか出来ない坂下の道は日枝神社方向への一方通行の道となっているからです。ではなぜ坂下で二股に分かれ右の道があるのでしょうか?豊島区役所の道路関係の方にお聞きしたのですが記録もなくいつころから今のようになったのか判りませんでした。やはりご近所のお年寄りの方に聞く方法が一番ではと思います。また後日訪れてみたいと思います。
 上に載せた日枝神社横の階段坂でも書きましたが、駒込一丁目の町会長さんと話をすることができましたが、この坂については”
いつの頃からの道かよくわからない。”とのことでした。昭和三十五年に作成された東京市の豊島区の地図の駒込付近を拡大した見てみますと、日枝神社脇の階段道や、木戸坂は書かれていますが、現駒込東公園のある所は大きく白地になっていて道は書かれていません。また後記しました木戸坂近くの階段坂②もこの地図では上からと下からの道が少し突き出ていますが道はつながっていません(階段がなかったようです。)。
                             
             
   駒込東公園へ上がる階段坂  標高(坂上)18m (坂下)14m (差)4m
   二股坂下の道と駒込東公園への階段(左奥)  駒込東公園中の階段(2方向から下りられる)  駒込東公園の階段下
   坂下が二股に分かれた坂の下道をほんの少し木戸坂方向に行くと崖側にこの階段があります。駒込東公園へ上がる階段坂です。豊島区のホームペイジによりますと、この駒込東公園は”戦災復興計画整理事業によって生まれた公園”とのことですので戦後の階段でした。公園は2段になっていて下の道から階段を上がって行きますと奥にまた階段があります。それを上がると”駒込東公園”と書かれた石碑がある広場に出ます。この上の広場に並行している道は二股坂上から木戸坂上に続いています。その道の木戸坂までの間に下の階段坂②があります。このあたりは豊島台地の内駒込込台地の東の外れにあり豊島区と文京区の区境ともなっていて豊島区から文京区への崖線となっている縁にあたる大変傾斜のある崖縁が続いています。
             
   階段坂②(木戸坂近く)  標高(坂上)20m (坂下)12m (差)8m
   無名階段坂上  無名階段坂中  無名階段坂下
   この無名の階段坂は木戸坂近くにあります。木戸坂上を少し南に歩いていましたところ道の横にへこんだようにこの階段坂上がありました(写真左)。興味を持って行ってみますと傾斜かきついせいか階段が途中でくの字に折れ曲がった形となっています。階段坂は比較的に新しく崖線を切り開いた昭和時代に造られた階段と思われますが(昭和三十五年発行の駒込詳細図にはこの階段は書かれていないで、両方向からの道が途切れて書かれています。)、この階段坂すぐに木戸坂があるのに何のために造られて階段坂なのでしょうか?その理由も大変興味がわいてきます。再度訪れて近所の方にお聞きしたり、区役所に行って確認してみたいと思います。
             
   階段坂③(文京区との区境の道の崖線にへばりついている)  標高(坂上)20m (坂下)15m (差)5m
   階段坂下の一方  左写真の階段坂上(右側に古い階段がある)  階段坂中
   もう一方の階段坂下  古い方の階段坂上(大谷石で造られている?)  古い方の階段坂中
   この無名の階段坂は区としては文京区に入りますが、木戸坂下の道を不忍通りに向かって歩いていた時に見つけたもので平坦に削られた崖を両側から階段坂が上っていました。しかもよく見ますとこの階段坂の造られて時期がかなりずれているのではないかと思われる石が使われていましたので興味がわき取り上げてみました。区役所の方にお聞きしたところ”この階段は同じ時期に大谷石で造られたが古くなり危険になったので片方を作り変えた。また古いままの方は階段上に塀があり行き止まりとなっている。塀の内側には区の植物の研究施設がある。”とのことでした。 
                        
   富士神社と大塚天祖神社:
 駒込地区にも多くの神社仏閣がありますが、そんな中で富士信仰に関わる富士神社とJR大塚駅すぐにある大塚天祖神社(天祖神社社務所とある)について調べてみました。 
   富士神社 
   富士神社には位置的には文京区本駒込五丁目に位置します。本郷通りと不忍通りの交差点から本郷通りを六義園とは反対方向に横道、富士神社とある信号を左に入り少し行ったところに参道があります。参道から少し入いたところに短いですが大変急な階段があり、階段両側は富士山に見立てたごつごつ岩だらけの小山となっていて登りきったところに本殿があります。その周りにも小さな祠のようなものがいくつかあります。この小山の周りには写真のようにいろいろな大名等が寄進をしたと思われる石碑がたくさんあります。小山の下参道から少し外れたところに”富士神社”についての説明板があり、説明には”富士神社はもと、旧本郷村にあった。天正元年名主が、夢に木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)の姿を見て、翌年駿河の藤浅間神社を勧請した。・・・・”と書かれています。その横には”駒込ナス”について書かれた金属の説明板があります。訪れた時は丁度秋の祭礼の準備をしていて、お祭りの提灯があちこちに掲げられていました。また富士神社から天祖神社方向へ続く細い道の端に”富士神社とその周辺”とある史跡案内がなりました。案内は時間が経ってしまっているのか説明の文字は読むことができましたが、周囲を描いた地図と昔の様子の絵は判別することができないほど荒れていました。風雨にさらされていると劣化は救えませんが金属材を変えるとか、文字彫刻の方法を変えるとかで劣化速度を遅くする等、方法はとれないものでしょうか?「江戸切絵図集成」にも、現本郷通りに沿って”駒込富士前町”と書かれた町人町があり、その奥に”明神宮”としてあります。 
   富士神社鳥居  本殿への階段 左の富士山と刻まれた石碑  富士山と刻まれた石碑といろいろな石碑
   富士神社本殿  山上にある石碑  何を祀ったのか読めず
   石碑も古く読めず  山中にある祠  加州と刻まれた石碑
   富士神社とその周辺の案内 どの地域の富士講もそうですが境内に築かれた小さな岩山がありそれを富士山に見立てていますが、ここの富士は神社全体が富士山を模したような格好で本殿も山の上にあります。上の御写真をご覧のように正面には急傾斜の階段坂がありますが富士山を回り込むような形で横道もあります。この横道を歩いて行かないと祠を見ることはできません。また山を回り込んでいる道脇には大名等が寄進したのでしょうかいろいろな藩の名前が彫られた石が建てられています。
また富士神社から駒込の天祖神社へ行く富士神社横の道には左のような道案内があります。(写真左)









 
                   
   一本道(いっぽんみち)にある3つの商店街(しもふり銀座商店街・染井銀座商店街・西ヶ原商店街)を歩いてみました。 
   染井通りを歩いていた時の発見ですが(昔からそうなっていたのでしょうが、私にとっては発見です。)染井通りから谷戸川が流れていた低地、駒込駅から本郷通りにある妙義坂を下った辺りの左側に”しもふり”とひらがなで書かれたアーケイドがある細い一本道には、入口から”霜降銀座商店街”、”染井銀座商店街”と”西ヶ原商店街”の3つの商店街がありました。地域別にそのように名前が付いたのでしょうが、商店街の方や商店街の地図をいただいたとところの方にお聞きしましたが、”自分たちの商店街は判るが、他の商店街は判らない。”とおっしゃっていました。「霜降銀座商店街&周辺マップ」には「霜降銀座商店街は昭和31年発足。」と書かれています。戦後に出来た商店街のようで比較的に新しいと思いましたがその頃は非常に活気があったと思われます。しかし、今は平日の昼間でもシャッターが下りているお店があり時代の流れを感じます。この細い一本道に興味を持ったのは、同じ細い一本道に切れ目なく商店が続いている通りに続いて3つの商店街名がある場所は初めてで興味を持ち歩いてみましたので特集してみました。 
   
             
   本郷通りから霜降銀座商店街への入口  霜降銀座商店街  霜降銀座商店街
   霜降銀座商店街と染井銀座商店街の境  両商店街の境にあるアーチ  アーチ付近路上に梅尾まれた”SimeiGinza”の文字
  染井銀座商店街  染井銀座商店街と西ヶ原商店街(奥)  西ヶ原商店街
  3つの商店街を歩いてみたのですが、本郷通り入口から霜降銀座商店街を通り染井銀座商店街入口付近まではまあまあの活気のある昔ながらの商店街ですが奥に進にしたがってその活気もなくなっていきただの生活通りの様子でした。訪れた時は平日のお昼時だったのですがあいているお店も少なく人通りも多くはありませんでした。興味を抱いたのは、霜降銀座商店街と染井銀座商店街の境目の路上に埋め込まれた、”ここからが染井銀座商店街なんだぞ!”と言わんばかりの”SomeiGinza”と書かれた道幅いっぱいの金属のプレートがありここからは霜降銀座ではなく染井銀座なんだと主張しているような両銀座の境目があることです。何で一本の細い道に3つも商店街の名前があるのかと不思議に思い「豊島区文化財マップ」や他の地図を見ましたところなるほど、霜降銀座商店街は北区に位置し、染井銀座商店街は豊島区に入り、また西ヶ原商店街は北区に入っていると言うことからこうなったのではないかと私なりに推察しました。もっともっとゆっくりと歩いてみるともっと興味のあることを発見するのではないかと思う大変興味のある商店街です。
                       
    駒込駅周辺の坂探しはいかがでしたかこの項はこれで終わりです。この辺は区が入り込んでいて、霜降銀座商店街を歩いていていつの間には区の表示が変わっていたり、木戸坂周辺を歩いているといつのまにか文京区に入っていたりしていて、しもふり銀座商店街の方や、六義園を訪れたときに発券所の方にいろいろお聞きした中で、”この辺は複雑に入り組んでいて、住んでいる私たちでさえまごついてしまう。”とおっしゃっていました。今回の坂道探しも多くの方々からいろいろな話をお聞きすることができました。台地や低地がなせる技なのか「崖線歩き」でもっともっとこだわりを持って歩き回ってみたいと思います。 
             
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