この項ではJR大塚駅南部に位置する3つの坂を追跡します。3つの坂の内、宮坂は文京区との区境にある坂で、文京区の項でもとりあげましたが、豊島区にもかかっていますので取り上げました。何年かぶりに訪れましたが
           
 あさみ坂、さいとう坂、宮坂
           
 あさみ坂  標高(坂上)20m (坂下)14m (差)6m
 あさみ坂への道と大塚三業組合事務所跡’左のビル)  あさみ坂上  あさみ坂下
 この坂の標は見つかりませんでした。「今昔 東京の坂」にも載っていません。しかし、豊島区発行の「豊島の坂」にありましたので探しに行きました。坂は大塚駅から谷端川の流れ跡が暗渠になっている大塚三業通りを少し行ったところ、左角に三業組合事務所があったとされる(碑も説明もありません。)角を左折した細い舗装された少しづつ傾斜がきつくなる道を進んだところにありますが、あさひ坂がどの辺からはじまるのかわ判りませんでしたので、「豊島の坂」にある図にしたがってみました。坂は三業通りから入った所からほんの少し傾斜となっていますが、あさひ坂下と思われる付近から傾斜がきつくなってきます。細い道を一方通行で車が通るのか坂上の傾斜のきつい部分には滑り止めのあるコンクリート道になっています。細い坂道の両側は低層のマンションに囲まれていています。あさみ坂と言う坂の名前は「豊島の坂」によりますと「大正九年のころ谷端川のほとりで始めた鳥料理やが、大塚花街の始まりだろうと、花街としてはそう古くはない。その大塚三業の発展に貢献のあった”あさみ”という人の名字を付けてこの坂が”あさみ坂”になったと聞いたことがあるので、多分昭和になってから付けられた比較的新し坂名と思われる。」と書かれています。 
           
 さいとう坂   標高(坂上)26m (坂下)16m (差)10m
 さいとう坂上  さいとう坂中と碑のある場所  さいとう坂の碑(説明はない)
 さいとう坂下  三業通りからさいとう坂への道  
 この坂の碑は坂の途中に石碑がありますが坂名だけ書かれており坂の説明はありません。「今昔 東京の坂」には載っていませんが、「豊島の坂」にありましたので探しに行きました。はじめ大塚三業通りを豊島区発行の「豊島区文化財マップ」を手にあさひ坂に引き続き巣鴨小学校方向に歩いたのですが見逃してしまったのか”丸山ちよ記念碑”のある小さな小さなスペース(遊園とか広場と言うにはあまりにも小さなスペースです。)のあるところまで行ってしまい引き返してみましたが判らず、「豊島の坂」には、あさみ坂方向から巣鴨小学校を少し過ぎたところにさいとう坂への道があるように略図ではある程度広い道のように書かれていましたのでさいとう坂のある道はある程度広いと思い込んでしまいました。住所的には南大塚一丁目24番と11番の間の道とあり巣鴨小学校前を行ったり来たり、漸く24番地と11番地の間にある細い細い路地と言った方がよいような小路を見つけました。丁度通りかかったご近所の方にお聞きしましたところ”この奥にさいとう坂がる”とのことで、やっとこの小路にあることが判りました。それでも半信半疑でその小路を三業通りから入って行きますと(写真下中)細くしかも一方通行ではない坂道があり(写真下左)アスファルトで覆われた傾斜の少ない坂道を上って行きますと道が逆くの字に曲った右端に(写真上中)電柱と民家の塀の間に隠れるように”さいとう坂”と刻まれた石碑があり、この坂が”さいとう坂”であることがはっきりしました。坂上から石碑のあるところをくの字に曲がって少し下ったところまでは傾斜がありその下は傾斜が緩くなっています。いつごろからの坂名のある坂なのかいろいろと調べてみましたが、「豊島の坂」にも書かれておらずいつのころからの坂道かは不明です。また坂上の道を突き当りまで行きますとそこには”文京区仙石三丁目”と書かれた住所表示がありました。半分隠れているような石碑の位置も不思議に思い「豊島の坂」見てみますと、記載された写真ではそのころのさいとう坂の碑のある側は坂上から石塀が続くお屋敷があり道がくの字に曲がる角に石碑があるように映っています。現在はそのお屋敷は無く石碑のある位置は同じようですが、石碑のすぐ上は横道となっていて電柱が立っていて、また石碑の下の民家の塀なのでしょうか石碑ぎりぎりにコンクリート塀があり、石碑はその隙間にやっとの追っているというような状態です。せっかくの名のある坂道であり石碑の建っているのに民家の敷地近くでるとは思いますが、もう少し整備されないものなのでしょうか? 
           
 宮坂   標高(坂上)25m (坂下)12m (差13)m
 宮坂上  宮坂下  この坂の標は見つかりませんでした。坂は坂はあさみ坂、さいとう坂と続く谷地が本郷台地の谷地に深く切り込んだ地形の南端に位置し坂上が文京区千石となり、坂下は豊島区南大塚一丁目となり両区にまたがっていています。文京区の坂でも取り上げましたがこの項でも取り上げてみました。傾斜の少ない直線の坂道です。









           
                           
 天祖神社社務所(大塚駅近く)    
 大塚天祖神社
 
(天祖神社とは)天照大神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社である。神明社(しんめいしゃ)、皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)などともいい、通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い駒込天祖神社(こまごめてんそじんじゃ)は、文京区本駒込にあるある。文治5年(1189)源頼朝公の奥州藤原泰衡征伐の時、霊夢のお告げがあり神明を祀ると伝えられている。その後宮守もなかったが、慶安年中(1648−1652)に堀丹後守年直(越後村松藩主堀直吉?)が再興する。江戸時代には駒込神明宮と称され、駒込村総鎮守とされた。空襲により残らず消失したが氏子各町の熱意により昭和29年新築し現在に至っている。地元の人たちからはかつては“神明さま”と呼ばれていた。源頼朝公の奥州藤原泰衡征伐の時、霊夢のお告げがあり神明を祀ると伝えられている。(以上Wikipediaより)  
 大塚天祖神社はJR大塚駅すぐにあり、都電沿線に沿って長い塀があります。その塀の角に”天祖神社→”の看板がありこの角を曲がってそぐに大きな石の鳥居のある天祖神社があります。鳥居左前には”天祖神社”とか刻まれた石柱があり石段を十段上がった奥に本殿があります。この境内には天祖神社だけではなく境内社として6つの神社も祀られています。初めて訪れた時には人気が全くなかったのですが、2度目に訪れた時は丁度祭礼の準備をなされたいたようで、宮司さんにいろいろとお話をお聞きしましたのでここに紹介したいと思います。神社内にあります説明文と地図にはこの大塚天祖神社は
「鎌倉時代の元亭年間(1321〜4)に領主の豊島氏が伊勢の皇大神宮の神さまをお迎えしてお祭りしたのが最初。明治六年に天祖神社と名前が変わるまで、神明社。神明宮と呼ばれていた・・・。」とあります。 
 辺祖神社の塀にある案内矢印  天祖神社の鳥居  天祖神社内にあった江戸切絵図
 境内社(熊野社・厳島社・菅原社)  天祖神社本殿  境内社(稲荷社・三峰社・榛名社)
 何回かお伺いしたある日丁度祭礼の準備をされていた宮司さんにお話をお伺いすることができましたのでいくつか載せてみました。
 各地に”天祖神社”が多くありますが、なぜ各地に同じ名前の神社があるのかをお尋ねしたところ、”
始めはそれぞれ違った名前を持った神社でしたが、明治以降の改革で天照大御神を祀る神社を天祖神社として統一された。”また、”東京都区内は神様の右手で(丁度右手親指が上野台地にあたる)守られている。”とお伺いしました。なるほど東京都区内の各台地の先が丁度指のような格好をしていて東京都が手のひらのような格好に見れなくもないな、昔の人たちは神にすがりいろいろと考えていたのだなぁ〜。と大変いいお話をお伺いすることが出来ました。また、他の神社にもあるようにここの天祖神社にも合計6つの境内社があります。それらが本殿の左右に奥にあり、右側には三峰社・榛名社が少し離れて稲荷社があり、左側には右から厳島社・熊野社・菅原社が祀られています。その中でも趣のあるのは左側の3つの神社が一見ひとつの建物のように見えるような形で祀られていました。各神社の神様のことは社務所に張り出されている掲示に書かれていますが、3社が一体となっているように見えるような社の説明はありませんでした。宮司さんには聞き漏らしてしまいました。 
           
  戻る 豊島区に戻る